渇望 _ 2
目が覚めると、そこに紺の姿はなかった。
綺麗に整えられたシーツと、しっかりと身に纏ったパジャマ。昨日のことはやっぱりわたしの夢だったんじゃないか。
慌ててドレッサーの鏡で姿を確認した首筋に無数につけられた紅い痕が、すぐにそれは杞憂だと知らしめてきたけれど。
彼と会うのはなんとなく気まずいけど、やっぱりきちんと会って話がしたかった。
わたしはまだ、紺に肝心なことを言えていない。
好きだという気持ちも、これから紺とどういう関係になりたいのかも。順番は間違ってしまったかもしれないけれど、紺の温もりを知った今だからこそ、自信を持って伝えられる気がする。
簡単に身支度をして、隣の家へと向かう。紺はいつもベランダから侵入してくることが多いから、こうして面と向かって玄関から会いに行くのは久しぶりかもしれない。
冷えた手を擦り合わせながら、恐る恐るインターフォンを鳴らす。冷え切った冬の朝に、機械音だけがやけに鮮明に響く。
出てきたのは、紺のお母さんだった。
わたしの姿を見るなり、用件も聞かずに中に入れてくれた。普段から優しくて素敵なおばさんだけど、なんとなく様子がおかしい。
なんだろう。なにか、嫌な予感がする。
「あの、紺は……」
声をかけると、おばさんはそのまま彼の部屋に案内してくれた。
少しだけ乱雑とした黒をモチーフにした紺の部屋。彼の好きなアーティストのCDジャケットが棚に並べられていて、ベットのシーツはぐちゃぐちゃで、机の上には高校で使っている教科書が積まれている。
なにも変わらない、いつも通りの景色。なのに、そこに丸ごと紺だけがいない。
「紺、しばらく帰ってこないの」
「……え?」
おばさんの言葉が理解できなくて、唖然とする。しばらく帰ってこないって、どういう意味だろう。
「どこか買い物に出かけてるんですか?」
「ううん」
「友達の家に行ってるとか……?」
「違うの」
「じゃあ、どういう、」
「すずちゃん、落ち着いて聞いてね」
目が合う。どうしてか、その先を聞きたくない。
「紺は、この街を出て行ったの」
あの夜を最後に、紺は消えた。
それはもう、突然に。なんの前触れもなく。
……いや、前触れは、あったのかもしれない。
彼が意味深な質問をしたのも、わたしを抱いたのも、今思えば前兆だったのかもしれない。でも、紺がどんな意図でその行動を起こしたのかも今となっては誰も分からない。
紺のご両親も、彼がどこに行ったのかは教えてくれなかった。紺が仲良くしてた友達も、誰一人として紺の場所を知ってる人はいなかった。
わたしの日常に、すっぽり、紺の存在だけが抜け落ちた。
泣いた。どうしようもなく泣いた。身体の水分が全部無くなって枯れ果てるんじゃないかと思うくらい、泣いた。
泣いて泣いて泣いても本気で涙が枯れることはなかったし、彼が帰ってくることもなかった。つけられた痕も、日に日に薄くなって、何事もなかったかのように消えていった。わたしの気持ちだけがあの夜に取り残されている。
どうして。どうして、なにも言わずに出て行ったの。どうして、あんなことを聞いたの。どうして、わたしを、抱いたりしたの。
次から次へと疑問は湧いて出るのに、その答えを知っている人はここにはいない。
悲しみは絶望に、絶望は憔悴に、憔悴は諦念に、諦念は悟りに。
紺は、わたしを捨てたのだと思った。
やっぱり、幼なじみのわたしが彼にとっては邪魔だったのだろう。最後に傷付けて、恨みを晴らしたかったのかもしれない。
そう思うと、悟りは憎しみに変わっていった。
もう二度と、会いたくない。こんな気持ちになるのなら、一生恋なんてしなくてもいい。どうせ、永遠なんて存在しない。
どれだけ相手を想っても、それは一瞬で壊れてしまうのだから。だったら、もう、
全部、厭って生きていこう。
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