渇望 _ 1

 あの日は、とても寒い夜だった。

 ニュースでもこの冬一番の冷え込みだと謳われていて、窓からはちらほらと雪が降っているのが見えた。

 時刻は午後10時を過ぎた頃。高校生にしては少しだけ早い就寝をしようと、寒さから逃げるように布団に包まった。

 この頃のわたしは、幼なじみである紺のことが好きで、大好きでたまらなかった。

 でも、紺はわたしと幼なじみだという関係をいつも嫌がっていた。


『すずとは家が近いだけ』


 たまたま家が隣同士で、たまたま親同士が仲良くなって、たまたま家族ぐるみで付き合うようになって、たまたま他の同級生たちより早く出会った。ただ、それだけの関係。

 幼なじみという関係に縋って、無理矢理にでも彼との繋がりを求めているわたしと、紺は違った。

 紺にとってわたしは、鬱陶しい枷。邪魔な鎖。クラスメイトとの会話の中でわたしとの関係を否定するのを耳にするたびに、その事実が重くのし掛かり、心が痛んだ。

 このまま彼に恋をし続けていても、実ることはない。だからと言って、放っておいて呆気なく消えるほどか弱いものでもない。

 高校を卒業して、本格的にお互いの道を歩き出す前に、わたしは紺に告白をするつもりだった。どうしようもなく大きく育ってしまった、この恋心にピリオドを打つために。

 静かな夜の中で、ただぼんやりと天井を見つめた。

 どうして、わたしは紺を好きになったのだろう。

 どうして、わたしは紺じゃなきゃだめなんだろう。

 どうして、紺は……、わたしを好きになってくれないんだろう。

 答えのない問いはぐるぐると渦巻くばかりで、さらに気が重くなるだけだった。

 ああ、もう早く眠ってしまおう。そう思い、掛け布団を頭まで被ってぎゅっと身を縮めた、そのときだった。

 コンコン、と小気味良い音が鼓膜を揺らす。最初は気のせいかと思ったけれど、催促するように再度音が鳴る。どうやら、なにかが窓を叩いている。

 そろりと起き上がり、不審に思いながらもカーテンに手をかける、と。


「っえ、紺……?」


 そこには、人差し指を口元に当て、「シー」と笑う紺がいた。


「どうしてここにいるの!?」

「ちょっとベランダ飛び越えてきた。ほら、俺って運動得意だから」

「そういうことじゃなくて……!」

「あーほら、寒いからとりあえず中入れてよ。ね?」


 わたしが断れないことを知っていて頼んでいるのだ、この男は。

 家が隣同士で、お互いの部屋も隣り合っているため今までもこうしてベランダ伝いに部屋に来たことはあったけれど。

 こんな夜に前触れもなく紺が来るのは、初めてのことだった。

 部屋に入るなり、「寒いー」なんて言いながらベッドに寝そべる彼を窘めながら腰掛ける。

 乱れた髪も、ちょっとぶかぶかのスウェットも、大きく口を開いてあくびをするその無防備な表情も。きっと、クラスのみんなは知らない。幼なじみである、わたしだから見られる特権。

 そんなところに小さな特別を感じては、優越感に浸って自分を慰める。我ながら、なんとも惨めで、哀れだ。

 こんなにも彼のいろんな顔を知っているのに、物心ついた頃から、幼稚園、小学校、中学校、そして高校3年になった今までずっと一緒に育ってきたのに、わたしは彼のこれからをなにも知らない。

 どの大学を受験するのかも、将来なにになりたいのかも、なにも。

 手を伸ばして触れてしまえば、なにかが壊れてしまいそうで。紺が、もう手の届かないところまで行ってしまいそうで。その不安に打ち勝ってまで踏み込む勇気が、わたしにはなかった。


「なあ、」


 ぽつりと投げかけられたそれに、顔を向けた。彼はぼんやりと宙を眺めながら、続ける。


「すずは、」

「なに?」

「俺がいなくなったら、どうする?」


 どこか無機質なその問いかけは、冷え切ったフローリングの床に音もなく落ちる。

 彼の質問の意図が読めなくて、……いや、単純に言っていることが理解できなくて、ただ呆然とその瞳を見つめ返した。

 そんなわたしを一瞥すると、紺はまた口を開く。


「例えば明日、俺が突然すずの前から消えたら、どう思う?」

「……なんで、そんなこと聞くの」

「いや、深い意味はないんだけど。ちょっと気になっただけ」


 髪に隠れて、その表情は見られなかった。

 こんなにもわたしを狂わせておいて、簡単にそんなことを言う。なんだかやるせなくて、ムカついて、つい、思ってもないことを言った。


「……別に、どうもしない」

「……」

「だって、わたしたちただの幼なじみだし」


 自分が放った言の葉は、鋭利な刃となって自身の心を突き刺した。本当はそんなこと、思ったことないのに。幼なじみのままでいいなんて、そんなこと、

 紺がどんな反応をするのか怖くて、俯いた。ぎゅっと強く目を瞑った。本当に、こんな自分、大嫌いだ。


「そっか、」

「……紺」

「そうだよなあ」


 今更、本当は寂しい。嘘でもそんなこと言わないで、なんて言えなかった。

 ああ、情けない。不甲斐ない。


「俺は、すずがいなくなるなんて考えられない」

「え、?」

「こうして手の届く距離にいてくれないと、困る」


 目を瞠った。視線が絡み合う。その言葉があまりにも都合が良くて、現実味がなくて、夢を見ているようだと思った。

 わたしの髪を、彼はおもむろに撫ぜた。まるで術にかけられたように、指の一本でさえも動かせない。

 それが恐怖なのか、歓喜なのか、高揚なのか、自身でさえも分からなくて。ただただ、目の前にいる紺を見つめ返すことしかできなかった。

 そんなわたしを見てどう思ったのか、彼はひとつ息を吐くと再度、今度は射抜くような鋭い視線でわたしを見た。


「あー、ムカつく」

「っ」

「いっそ、めちゃくちゃにして壊してやろうか」


 そしたら嫌でも俺のこと忘れないでしょ。

 その言葉に反論する前に、口を塞がれる。それがキスだと自覚するのに、数秒の時間を有した。

 食むように、味わうように、何度も角度を変えて彼の熱が降ってくる。

 経験なんて全くなくて、はじめて与えられるものばかりで。状況を飲み込むだけでいっぱいいっぱいだった。

 十数分経ったのか、はたまた数秒しか経っていなかったのか分からないけれど、やがて彼が口を離す。すでにへとへとになりながらもその仕草を目で追った。心臓が、痛いほどに苦しい。

 わたしの頬を両の手で包むと、彼が言葉を吐き出す。瞳の奥に滾る熱が、わたしの奥をきゅんと疼かせた。


「襲っていい?」


 返事を聞く前に、彼はわたしの身体を押し倒した。

 ベッドに深く沈む身体。すかさず覆い被さる彼の影に阻まれて、逃げられない。

 そんなわたしの心境を知ってか知らずか、彼は再度口付けた。

 強引なキスはみるみるうちに深くなり、息継ぎをする間も与えてくれなくて。頭に靄がかかったようにぼうっとする。

 指が髪に絡んで、息が混じり合って、わたしの思考を蝕んでいく。

 あれ、どうしてこんなことになってるんだっけ。どうして、紺と、

 刹那彼の舌先が強引に唇をこじ開けると、容赦なく口内を犯してくる。逃げようとするわたしの舌を捕え、呆気なく絡めとられた。

 呼吸ごと丸ごと奪うように貪られて、考える隙もない。まるで、奈落の底に紺と一緒に落ちていくようだ。

 歯列をなぞられて、舌を食べられて、吐息を呑み込まれて、彼の色が、匂いが、熱が、わたしを侵食する。


「ん、っふぁ、」

「……っ」


 思わず漏れ出たそれが、自分の声じゃないみたいで。恥ずかしくて、ぎゅっと強く目を瞑った。

 そんなわたしの唇をちゅっと啄むように口付けると、紺はそのまま首筋に顔を埋めた。髪がこそばゆくて、身体が跳ねる。

 そんな態度をものともせずに、思いきり吸いつかれる。


「っ、いっ……!」


 チクリとした痛みに、思わず目を開ける。

 ゆるりと目を細めた彼の表情が映る。どうして、そんなに嬉しそうなの。


「これを見て、俺のこと嫌でも思い出して」

「っえ……? どういう、意味?」

「俺を思い出して、寂しくなって、恋しくなって、そして、……ぐちゃぐちゃになればいい」


 そのあとのことはもう、詳しくは覚えていない。

 わたしは紺にされるがまま、彼にしがみつくことだけで精一杯だった。

 胸の先を摘んだり噛まれたり吸われたりされることも。

 足を開いて自分ですらちゃんと見たこともないようなところを誰かに見られることも。

 なにかがわたしのなかに入ってきて動き回ることも。

 全部がはじめてで、右も左もわからなくて、恥ずかしくて、熱くて、……ただただ気持ちよかった。

 最初は痛かったはずなのに、わたしを貫いているのが他でもない紺なのだと思うとどうしようもなく興奮して、嬉しくて、

 もっと深く繋がって、二度と離れられないようになればいいなんて、そんな夢みたいなことを思った。


「っん、あっあ、うっあっ、」

「……すず、」


 紺が、わたしの奥まで来て、押し込むようにぐるりと回す。

 目の前に星が舞って、訳もわからないまま頂上へ連れていかれる。声もろくに出せないほどの快感が、雷に打たれたように全身を駆け巡る。

 はくはくと呼吸もままならないわたしの唇を、彼が塞いだ。

 きっと涙と涎で酷い顔をしているのだろう。でもそれを取り繕うほどの余裕は、今のわたしにはなかった。


「すず……っ」


 もう数え切らないほど頂点まで導かれて、ただ意味のない言葉を発することしかできなくなったわたしを、彼はめちゃくちゃに貪った。

 激しい律動を受け止めるのが精一杯で、布団のシーツを掴む握力すら残っていない。

 やがて限界がきて、何度目かの絶頂を迎えたとき、薄い膜越しに彼の熱を奥に感じた。

 わたしだけじゃなくて、紺も気持ちいいと思ってくれたことが嬉しくて、安堵心からか一気に気が抜ける。


「……ごめんな」


 頭を優しく撫ぜられて、そのままストンと眠りに落ちた。

 それが紺の最後の温もりになるなんて、夢にも思わずに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る