再会 _ 2
夜の街は、想像していた以上に騒がしく、そして明るかった。最近はこうして仕事終わりに出歩くこともなかったから、夜がこんなにもキラキラとしていて、そしてひんやりと冷え込んでいるということも知らなかった。
思えばもう12月も半ばなのだから、寒くて当たり前といえば当たり前なのだろうけど。家と会社の往復だけを繰り返していたわたしにとっては、季節なんてただの飾りで。
吐き出した白い息で手を擦りながら歩いていると、ふと隣から声が飛んでくる。
「小城、寒い?」
背の高い彼が、覗き込むようにしてそう問う。そして、自然な流れで身に纏っていたコートを脱ぎ、わたしに羽織らせようとしたところで、慌てて声を上げた。
「大丈夫です! だからコートは羽咋さんが着ててください! 風邪でも引いたら大変ですから」
「それ俺の台詞なんだけど。あったかくしてないと。小城は女の子なんだから」
「もう女の子って歳でもないですし……それにわたし、昔から身体だけは丈夫なんです。だから羽咋さんの気持ちだけ受け取ります。ね?」
散々残業にまで付き合わせて、こうして彼の貴重な時間まで奪っておいて、その上コートまで貸してもらうなんて、さすがに気が重い。
力こぶを作って笑えば、「本当に寒かったらいつでも貸すから遠慮なく言ってよ」と返してくれる。本当にできた人だ。
「世の中羽咋さんみたいに優しい人だらけならもっと平和になるんでしょうね」
「そうかな。俺は小城が思うほど優しい人間じゃないよ」
「羽咋さんが優しくなかったらみんな意地悪ですよ」
ふと彼を見れば、やんわりと視線の糸が絡み合う。
街の明かりに照らされた横顔。風のせいで少し乱れた髪。寒さでほんのり赤くなった鼻先。
職場で見れない彼の表情が、この空間はプライベートなのだと教えてくれる。
こうして、男の人と並んで歩くなんて何年ぶりだろう。
いい歳こいてろくな恋愛経験もなくて、恋の仕方が分からないどころか恋をすることにもどこか臆病になっていて。
その、原因は、
何度も忘れようと思った。いや、もう忘れたと思っている。それなのに、完全にその存在を断ち切れない自分が本当に憎い。
もう、あいつとは、なんのつながりもないというのに。
「小城?」
羽咋さんのどこか不安げな声音に、現実に引き戻される。
視界いっぱいに鮮やかな街が飛び込んできて、セピア色に褪せた気持ちに徐々に彩りが返ってくる。
そうだ。過ぎたことなんて考えなくていい。過去はどうしたって変えられないけれど、未来はどんなふうにでも描くことができる。
だから、今、そばにいる人との時間を大切にしないと。
「大丈夫? やっぱり体調悪いんじゃない? コート貸そうか」
「すみません、ちょっと考え事してて……」
「本当に?」
「ご心配をおかけしてしまってすみません」
「いや、それはいいけど……心配くらいさせてよ」
夜の中でも彼の存在はとてもよく映えた。
こんな人を好きになれたら、どんなに幸せだろう。
「やっぱり羽咋さんは優しいです」
「…………そんなことないけどね」
「え?」
「そろそろ店入るか。小城はなにが食べたい?」
喧騒と相まって聞こえなかった言葉をやんわりと交わされ、話題を振られた。
小骨が刺さったような心地になったものの、そろそろ暖かい店内に入りたい気持ちもある。
またお店に入った後にゆっくり話そうと心に決め、きょろきょろと辺りを見回している、と。
「っ、わ、」
「……っ」
突然感じた衝撃で、身体のバランスが崩れる。立て直す術もなく、地面に崩れ落ちそうになった身体を強引に抱き竦められた。
あまりにも一瞬の出来事に、なにが起こったのか理解が追いつかない。ただただ目を瞬かせることしかできないわたしの耳に届いたのは、
「大丈夫?」
その声を聞いた瞬間、ドクンと心臓が震えた。
激しい伸縮を繰り返し、勢いよく血が巡っていく。さっきまであんなにも寒かったのに、じんわりと汗が滲んで、つうっと道を作る。
怖くて、顔が上げられない。もしも、そんな、まさか。
「小城、平気か?」
遠くに羽咋さんの声が聞こえる。答えたいのに、うまく声が出せない。
「すみません、俺もちゃんと前を見ていなくて。彼女にぶつかってしまって、咄嗟に」
「、」
似ている。あの頃より背も伸びて、声も低くなって。全然、違うのに。
それに、彼が、わたしのことを覚えているわけがない。
だってわたしは、捨てられたのだ。だから、もう、二度と、会うことはない。きっと、人違いだ、きっと、
震える手に有りったけの力を込めて、距離を取った。すんなりと離れる身体。空いた隙間に入り込んだ冷気が、容赦なく肌を刺す。
とにかくここから一刻も早く立ち去りたくて、俯いたまま足早に言葉を紡ぐ。
「わ、わたしもよそ見してて。ぶつかってしまってすみませんでした。じゃあ、」
「待って」
パシッ、という乾いた音とともに、腕に熱が灯る。頭の中でけたたましく警鐘が鳴り響く。
これ以上、ここにいちゃいけない。それなのに、身体は石になったように動かない。
「怪我はない? 悪いし、お詫びさせて」
「本当に、大丈夫です」
「だったらちゃんとこっち見てよ」
怖い。顔を上げたら、わたしの中の概念が崩されてしまいそうで。
必死に押し込めてきた想いが、いとも簡単に堰を切って溢れ出しそうで。
もう、戻っちゃいけないのに。
「……紺、」
ビー玉のような瞳が、ただまっすぐにわたしを射抜いた。
彼は一瞬それを大きく見開くと、そのまますうっと目を細めて笑った。
ああ、幼い頃からずっと変わらない。うれしいときに目を眇めるその癖は。
「すず」
わたしを名前で呼ぶ男は、世界にたった一人しかいない。
もう、二度と会うことはないと思っていた。
8年前、彼がわたしの前から消えたあの日を最後に、彼がわたしを捨てたあの日を最後に、もう、わたしと彼を繋ぐ糸は絶たれたとそう思っていた。そう、思うしかなかった。
なのに、どうして今更。
「小城、知り合い?」
隣から羽咋さんの声が届いて、少しだけ視界がクリアになった。街に漂う喧騒も、色とりどりに光るライトも。往来のなかで立ち尽くすわたしたちの状況が飲み込めてきた。
未だにドクドクと鳴る胸を片手で押さえながら、おずおずと口を開いた。
「いえ、そういうわけじゃ……」
「すずと俺は所謂幼なじみってやつです。物心ついた頃から一緒で」
「っ」
「久しぶりに会って懐かしくて。申し訳ないんですが彼女をお借りしてもいいですか? ゆっくり話したくて」
にこやかに紡がれたそれに、わたしは目をひん剥いた。
冗談じゃない。わたしは今更、彼と話すことなんてない。それに、わたしには羽咋さんに借りを返すという役目もある。
抵抗すべく掴まれた腕を振り払おうと試みるも、いとも簡単に押さえ込まれてしまう。痛いほど強く握られた腕が、わたしの心を締め付ける。
「いや、でも……今日は約束してたから、ね?」
わたしの態度に気がついたのか、羽咋さんが助け舟を出してくれる。
機転のきく羽咋さんの対応に改めて感心しつつ、それに乗ろうとするも、彼はそう簡単には首を縦に振らなかった。
「別に予約とかはされてないんですよね?」
「え? ああ、まあ」
「だったら今日じゃなくても、また日を改めることは可能ですよね?」
「そうだけど、」
「では、今日は俺に譲ってください」
彼はそう言い放つと、わたしの手を引いて歩き出した。
羽咋さんに挨拶もなしで帰れないと思い向き直ろうとするけれど、存外強い力で前に進むものだからろくに声もかけられないまま離れていく。
夜に靡く黒髪に、黒いコートとパンツを見に纏った彼は、このまま闇に溶けてしまいそうで。彼と、紺と、再会したことがいまだに夢なんじゃないかと思うほどだ。
でも、目の前にいるのは紛れもなく紺で。なにを考えているのか分からないところも、わたしの気持ちなんか置き去りにして自分勝手に振り回すところも、昔からなにも変わっていない。
変わっていないけれど、もう、昔と今ではなにもかもが違う。
掴まれたままの腕が、じんじんと熱い。
「……ちょっと」
しばらく街の中を歩いたあと、黒い背中にそう投げかける。
髪の隙間から覗いた瞳がわたしを映す。
「もう、離して」
「……」
「今更、なんの用なの? わたしはもう、……紺と話すことなんてない」
騒がしい街の中で、ここだけが異質だった。
彼はわたしの言葉を軽く一蹴すると、また歩き出す。
いつだって、わたしのことは置いてけぼりだ。紺は、いつも、
「ねえ、」
「すずの家どこ?」
「……は?」
「俺今日泊まるとこないんだよね。だから一晩だけ宿貸してよ」
「なに言ってるの。無理に決まってる」
「酷いな。俺をこんな寒空の下ひとり置き去りにする気?」
「別に紺なんかどうでもいいし……わたしがそんなことする義理なんてないでしょ? 適当にホテルにでも泊まればいいじゃない」
「……」
ほんの少しの沈黙の後、彼は歩みを止めることなく足を動かした。繋がれた腕はそのままに。
半ば引き摺られるような形でその後ろを歩く。さすがに、もう限界だ。
「っ、ちょっと、どこ行くの?」
「どこって、ホテルだけど」
「ホテルって、っ!」
強引に連れられてきたせいで、辺りを見ることを失念していた。
先ほどの繁華街とは少し場所が変わり、ピンク色のネオンがちらほら光る。すれ違う人も男女で連れ添っているのが目立ち、中には路上の傍らでキスを交わす人もいる。
この状況を加味して、彼の言うホテルがどんなものなのか分からないとカマトトぶれるような歳でもない。
「どういうつもり?」
「すずが言ったんじゃん。ホテルなら良いって」
「拡大解釈が過ぎるんですけど!?」
「ほら、どこがいい? 選ばせてあげる」
「っ、いい加減にして! 帰る」
「悪いけど、絶対離さない」
ぶんぶんと手を振り回すも、一向に解けない。
本当に、分からない。彼がなにを考えているのかも、どうしたいのかも。
全部全部、終わったことなのに。
「すずとふたりになれるなら、どこだっていい」
なのに。ただまっすぐに届くその視線だけは、どこまでも真摯に思えて。
はあ、と息を吐いた。もとより、彼が頑固で、一度自分がそうしたいと決めたことに対しては誰がなんと言おうと意見を変えない強情な面があることは知っていた。
彼が先輩を説き伏せてでもわたしの手を引いた時点で、心のどこかではもう紺のペースに抗えないんじゃないかって、思っていた。
いつも自分勝手にわたしのことを巻き込むくせに、紺はいつも、なにも言ってくれない。肝心なことを、なにひとつ。
一番近くにいたはずだったのに、結局わたしは紺のことをなにも知らない。
幼なじみという関係に甘えて、そばに居られる幸せを必死に噛み締めていたわたしとは、紺は違ったのだ。
「……分かった」
足を止める。人々がわたしたちを追い越していく。
分からない。今更、知りたいとも思わない。でも、わたしたちはまた出会ってしまった。
この手を、今ここで振り払う術がないのなら。
「わたしの部屋でいいから」
「っ」
「逃げないから……手を離して」
だったらもう、向き合うしかない。
彼は少しだけ目を伏せて、ようやく手を緩めた。
寒空の下、掴まれていた左腕だけが、やけに熱くて仕方なかった。
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