再会 _ 1
壁に掛けられた時計は、無慈悲にも午後9時を指している。いまだに自分のデスクに鎮座している書類の山に、思わずため息が零れ出た。
定時をとっくに過ぎた社内に人影はない。静かな部屋の中で響くのは、時計の針とタイピングの音だけ。
今日中に仕上げてくれと頼まれた仕事に致命的なミスが見つかり、それを直すために先方に確認を入れたり、前任の担当者に話をしたりとなんやかんやしていたらこんな時間になってしまった。
それでも会議の時間はずらせないし、締め切りも待ってはくれず、なんとか明日までにこれをやっつけなければならない。
思えば、最近はずっとこんな生活だ。
朝起きて、仕事に行って、帰ってきたらお風呂に入ってそのまま寝る。
これといった趣味もないし、最近はテレビや雑誌なども見る暇もない。家には寝に帰るくらいの感覚で、それ以外はずっと職場。もう26になるのに、色恋のいの字もない。
我ながら枯れているな、と思ったその刹那。
「うわー、すごい量だね」
ふと降ってきたその声に、弾けるように顔を上げた。視界に飛び込んできたのは、
「羽咋さん……! まだ残ってらっしゃったんですか」
「まあね。まだ電気がついてるから気になって来てみたら……なかなか大変そうだね、小城」
「あ、あはは……明日の会議で使う書類なんです。どうしても今日中にやっつけたくて」
暗めのブラウンの髪に、スラリとした体躯。優しげな甘いマスクが印象的な彼は、同じフロアの部署の先輩である羽咋さんだ。
仕事のできる先輩がまだ残っていたことには驚いたけれど、疲れ果てて、気力が地に落ちていた今、信頼できるひとに会えたことに本当に癒される。
「良かったら手伝うよ。俺も去年までは小城と同じ部署にいたから、大体のことなら分かると思うし」
「えっ、そんな、悪いです……!」
「こんな大変そうな小城置いてそのまま帰れないし。それに、ひとりでやるよりふたりでやる方が早く終わるでしょ?」
ね? と笑う彼の背後に後光が差している錯覚が見える。本当に、羽咋さんは優しい。
ここでこれ以上遠慮の言葉を重ねるのは逆に失礼にあたるだろうと、素直に「お願いします」と言えば、ぽんぽんと頭を撫ぜられる。頭が上がらない。
隣の席に腰掛け、ノートパソコンを起動させる先輩に申し訳なさを感じながら、キーボードを叩く。少しでも負担をかけさせないためにも、より一層ペースを上げて片付けなくちゃ。
ずっと絶えずブルーライトを浴びいているせいか、視界が霞んで見える。瞬きを繰り返して、パチパチと頬を叩いた。だめだ、こんなところで躓いていたら。もっと頑張らなくちゃ、もっと、
「小城さ」
ハッとして、声の方へ顔を向けると、おもむろに視線が重なった。
立ち上がったばかりのデスクトップの光が、彼の髪を淡く照らす。時計の針の音が、私の応えを促すように響いている。
「は、はい」
「このあと暇?」
「え?」
「いや今日金曜だし、用事あるかなって」
華金もなにも、今日中に帰れるかどうかさえあやしいのに予定なんてあるわけがない。
もとより、残業がなかったとしても最近は仕事ばかりでプライベートで遊ぶ友人もほとんど限られてきてしまった。
「もう夜も遅いですし、なにもないですよ」
「そうなの?」
「はい。最近仕事が充実しててプライベートは全然で……」
「そうなんだ。意外だなあ」
「わたしなんかを本当に好きになってくれる人なんていませんよ」
吐き出してから気づいた。さすがに出過ぎたことを口走ったかもしれない。
誤魔化すように笑って、キーボードを叩いた。
機械音だけがやけに喧しく鼓膜を揺さぶる。なんだか、いてもたってもいられなくて、そろりと口を開く。
「……でも、どうしたんですか?」
「え?」
「いきなり、そんなこと聞くなんて」
羽咋さんは、とてもモテる。要領がよくて、面倒見もよくて、将来を期待されている。
おまけに顔も整っていて、スタイルも恵まれていて。わたしにないものを、たくさん持っている。
羽咋さんは紛れもなく、選ばれる側の人間だ。
ただただどうしようもなく、為す術もなく、ただ呆然と待つことしかできないような人間とは違う。
それでも、この空気の意図を読めないほど、わたしは疎くもなかった。
彼はクスリと笑みを零すと、画面から目を離してまっすぐにこちらを見た。キーボードの音が止む。ごくり、と生唾を飲んだ音がやけに大きく聞こえる。
「俺とデートしてよ。このあと」
「……わたしと、ですか?」
「もちろん。残業に付き合った報酬だと思ってさ」
「でも、」
「前から、小城とゆっくり話してみたかったんだ」
それだけ言うと、彼は向き直り、再び手を動かし始めた。
それに倣うようにして、わたしも仕事に戻る。
ぐるぐると、いろんな気持ちが蠢いていた。
みんなが羽咋さんのことを好きなように、わたしだって彼のことが好きだ。仕事に対する姿勢も、その成果も、すべてにおいて信頼しているし、慕っている。彼のようになりたくて、必死にその背を追っている。
そんな彼が、彼の方から、歩み寄ってくれた。わたしには、その手を振り払う選択肢なんてない。うれしいに決まっている。それなのに、
純粋に喜べない訳は、ちゃんと分かっていた。
怖いのだ。信頼が、万が一にも恋になって、そして、
無惨にも踏みにじられるのが。
思考を断ち切るように、手を動かした。
いつまでも、ここにいるわけにはいかない。
わたしの業務なのに、わざわざ残って手伝ってくれているのだ。釣り合わない以前に、お礼をするのは当たり前。早く羽咋さんに恩返しするためにも、今は集中しないと。
カチ、カチと規則正しく響くリズムが、なぜか脳裏にこびりついて離れなかった。
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