05

 二人きりになってしまうと、いつもは賑やかな家も、静かになる。普段は楽しそうに笑うジェゼベルドは、今、この家に来て初めて『作り笑顔』を見せた。わたしが見たことあるジェゼベルドの笑顔と、全然違う。


 ――怒ってる?


 何かしただろうか。それとも仕事でなにあって不機嫌なだけ?

 初めて見るジェゼベルドの表情に、わたしは戸惑って、なにも言えなかった。少なくともいい感情からくる表情ではないだろうから、気軽に声をかけるのもためらわれる。


 ジェゼベルドがすたすたとこちらに歩み寄ってきて、さきほどまでルトゥールが座っていた場所に座る。具体的には、ソファに座る、わたしの隣。

 ルトゥールはまだ人が一人座れるくらいの余裕を持たせて座っていたが、ジェゼベルドは、ぴったりと隣に座ってきた。


 気まずくて、席を立とうと腰を浮かせると、がしっと腕を掴まれた。びっくりして、ジェゼベルドの方を見ると、にっこりと、作った笑顔のまま。

 怖くて手を振りほどけず、わたしはそのまま再び腰をおろした。わたしの腕を掴む彼の手は、力を緩めこそしたものの、離してくれる気配がない。


「――っ!」


 それどころか、するりと手が移動して、わたしの手のひらを捕らえた。すりすりとわたしの手を確かめるように撫でながら、指を絡めてくる。触り方が非常にやらしい。


「や、やめ――」


「貴女、男が苦手だったのではないですか?」


 やめて、という懇願に、エディスは言葉を重ねてくる。優しく撫でていた手が、きゅっとわたしの手を握ってくる。痛くはないが、急に刺激が変わってびっくりしてしまい、肩が少し跳ねる。


 ……わたし、ジェゼベルドに男が苦手だって、話してたっけ。話していないような気がする。

 部屋の割り振り的にも、露骨に夜を避けている様子からも、わたしが男を苦手としていることは察せられるだろうが、面と向かって言ったことはないはずだ。


「アリヴィドさんから聞きました。貴女は男が怖くて苦手なのだと」


 いつの間に。……いや、わたしが彼を避けているのだから、彼が他の夫たちといつ交流しているかなんて分かるわけないか。


「それなのに、ルトゥールさんとは話をするんですね。僕とは少ししかお話してくれないくせに。――ずるい」


 ずるい、という声音が、妙に子供っぽくて。やっていることは、どうにもいやらしくて、大人なのに、声だけが子供のようで、ちぐはぐだ。おそらく、その、ずるい、という言葉が、まぎれもない本心なのだろう。


「――どうして、ずるいの」


 わたしは限界になって、ついに聞いてしまった。だって、わたし、本当になにも――。


「惚れている女性が、自分じゃない他の男と話していて、嫉妬しない男がいますか?」


 考えていたことが全部ふっとんだ。ルトゥールが、わたしを見るジェゼベルドの目が恋をする男のもの、と言っていたけれど、本人の口から直接聞くのは、全然破壊力が違った。


「ちが、え、あ、え? あう……あの、えっと……その」


 わたしに惚れているから、とかじゃなくてどうしてわたしに惚れているのと聞きたかった、とか。

 ルトゥールはレノ以外に恋愛的な興味を持たないから大丈夫だよ、とか。

 嫉妬するような人だったんだ、とか。

 というかなんか近いから離れて、とか。


 言いたいことがたくさんあって、でも言ったらまずいだろうな、ということもあって、何を取捨選択して彼に話せばいいのか、全然分からなくて。ああ、順序立てて話もしないといけないのかな。

 ただひたすらに混乱するわたしをよそに、ジェゼベルドは続ける。


「既に夫のいる『銀の子』ですから。全ての愛を、とは言わないですが、平等に愛を乞うのは悪いことじゃないでしょう?」


 ずい、と覗き込むようにジェゼベルドが顔を近付けてくる。わたしは反射的に繋がれていた手を振りほどいて、彼を突き飛ばしていた。


「離れて!」


 今まで彼に向けて発したことのないくらいの大声が口から出ていた。


「――すみません、男が苦手なんでしたね」


 少しだけ、震えるジェゼベルドの声。

 顔を急に近付けてきたジェゼベルドが悪いのに。怖かったのは、わたしなのに。

 それなのに、妙に、罪悪感が沸いてしまう。そんな声だった。


「なんで……、なんでわたしなんかが好きなの」


 好かれている理由が理解出来ない疑問と、近付かれたことへの恐怖と、罪悪感が沸いてしまうことへの混乱と――全てがぐちゃぐちゃに混ざり合って、涙となる。一つ一つ言葉に出来なくなった感情が、わたしの頬を伝った。


「わたし、あなたのことなんて知らない。何も、してない。か、顔だってそんなに可愛くない! 態度はもっと可愛くない! こんな、こんなの、好かれっこないのに……!」


 泣いたってどうにもならない。ただジェゼベルドが困るだけ。でもわたし自身、どうしたらいいのか分からなかった。


 する、とジェゼベルドの手が伸びてくる。彼は再びわたしの手を取った。

 でも、今度は全然変な触り方なんかじゃなくて、ただ、本当に掴んだだけ。そのまま、わたしの腕を引っ張って、彼の前髪の方へ、持っていかれる。


 わたしの涙で濡れた指先が、彼の左目を隠す、厚い前髪に触れる。


「――暴いて」


 優しい笑みだった。さっきまでの作り笑顔でも、いつものような楽しそうなにこにことした表情でもない。ただただ、優しい顔で、彼はわたしに許可を出す。


 一度も見たことのない、彼の前髪の先。


「見れば分かります」


 指先が震える。普段彼と接する時間が多かったわけじゃないけれど、必ず彼の左目は、前髪で隠されていた。不思議なくらい、その向こう側は見えなくて。

 自分から男に触れるという怖さと、彼の秘密を知ってしまうという緊張。ドキドキと、心音が聞こえるくらいに激しく動くのは、どっちが原因からか。


 見れば分かる、という言葉を信じて、わたしはそっと、彼の前髪を避けた。


 ――銀だ。


 灰色にも見える、濁った銀の瞳が、わたしを見ていた。目じりには、傷がある。そんなに目立つものじゃないけど、この距離で見れば、傷があると分かる程度には、跡が残っている。


「あ――」


 そして、わたしはこの、左右違う目の持ち主を、知っていた。

 わたしは思わず、目じりの傷跡を撫でた。ふ、とくすぐったそうに、ジェゼベルドが息を吐いた。


「思い出しましたか」


「……うん」


 ジェゼベルド、という名前を聞いても、全然ピンとは来なかった。ありふれた名前、というわけではないが、決して少なくて珍しい名前でもない。

 でも、魔力の属性が瞳の色となって現れるこの世界で、どれだけ探しても、左が銀、右が緑、と左右の目の色が違う、ジェゼベルドという名前を持つ男は、目の前のジェゼベルドしかいないだろう。


 彼もアリヴィドと同じ、わたしが『男が怖い』と思うようになったきっかけ以前に知り合った、数少ない男のうちの一人。

 でも、アリヴィドと違うのは、アリヴィドは『幼馴染』と言えるほどの関係で、家が近所で、ずっと共に育ち、現在まで一緒にいたのに対して、ジェゼベルドは幼少期に少し遊んで、それ以来、ずっと会っていなかった、過去に少し遊んだだけ、という関係。気が付いたときには、彼は引っ越していなくなってしまっていたから。


 それでも、彼の方は、しっかりわたしを覚えていて、すぐに気が付いた。わたしが銀の子だったから、というのもあるだろうけど。

 ――でも、結局は『それだけ』である。幼少期に交流があったのは覚えている。何をして遊んでいたかまでは流石に忘れたが、左右の目の色が違う男の子と遊んだことは忘れていない。


 しかし、交流があった程度で、ここまで惚れ込むか? 幼い頃のわたしは何をしたんだろう。

 未だにしっくり来ていないのが、表情に出ていたらしい。ジェゼベルドが、少し拗ねたような表情に戻った。

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