19.サイヒの街の安息日(1)
涙の大陸では安息日が訪れる。
その日に限っては街中が静まり返り、よほどの理由がない限り働く者はいないのだ。
先日までのタビたちのように。
ちなみに来客がある宿屋ですら作り置きの料理をストレージから取り出すだけで済ませ、万神教会ですら門戸を閉ざすなど、その徹底ぶりはかつてタビの暮らした世界の比ではない。歓楽施設ですら開いているのは半分ほど、その大半は客も寄り付かないほどだ。
今のタビとルルは住居と自活できるだけの資金を持っているので、お休みの権利を行使している。というよりも、老爺の森の冒険で頑張ったので3日ほどまとめた休暇を取っているといった方が正しいかもしれない。
何ならタビが起きたのも昼過ぎだ。購入時から据え付けられていたベッドは1人で寝るにはいささか大きかったが、それに見合うベッドメイクをすれば当然のように安眠を約束してくれるベッドの出来上がりだ。シーツや掛布団を買うだけでもそれなりのお値段したのだが。
手洗いを済ませたタビは自室に戻ってナポリタンを作る。
まとまった量の酢が手に入ったのだ。ケチャップとマヨネーズを用意すれば食生活はよりよくなるぞ、とタビは多めに作っておいた。ルルにも作り方を教えて、酢を手に入れたらストックしておいてほしいと頼んである。
ついでに自室に調理環境も整えた。写経しているときに軽く何かをつまみたくなるのは、論文執筆時に散々経験済みだ。部屋から出ずに気分転換ができるのはモチベーションの維持に大変役に立つ(自室に調理場所を作ると言ったとき、ルルは少し悲しそうな顔をしたが)。
そんなわけで厚めに切ったベーコンと玉ねぎ、ピーマンをパスタと共に加えて炒め、おいしいナポリタンを食す。タビはスパゲティを使った料理の中ではナポリタンが一番好きなのだ。
手早く食事を済ませて食器類をストレージに叩きこみ(興が乗っているときに食器洗いをしないのはタビの悪い癖だ)、自室内にある執務机に向かう。そこに投げ出されているのは昨日の夜から写経に取り掛かった<植物魔法の書>だ。
「まさかここまでよくわからなくなるとはね……」
彼がゲームとしてERを遊んでいた時、4種の<基本魔法の書>以外で手に入れた魔導書は雷と氷の2種類だけだった。基本魔法以外では比較的簡単に――それでも400時間程度の習熟は必須だが――手に入れられる魔導書だけあって、難易度も<基本魔法の書>と大差ないレベルだったのだが、<植物魔法の書>は格が違った。
まず、書いてある文章がかなり読みづらい。ミミズがのたくったような文字もそうだが、不必要なはずの装飾語や単語の省略が頻繁に繰り返され、時には乱丁としか思えないようなページの入り繰りが散見されるため、考えながら読んでも意味が通らないのだ。
タビは試しに<植物魔法の書>をストレージに入れ、部屋に持ってきた薬草鉢に使ってみる。小さな苗を植えただけのそれはみるみるうちに立派に育ち、青々とした葉を茂らせる。
薬草として利用できる葉を摘んでみるが、品質に問題はなさそうだ。老爺の森から帰宅した夜から繰り返し使っているが、その結果は変わっていない。
そこにどうにも違和感を感じるのだ。すなわち「魔法を使う時は理解しているのに、書物として読むとまるで理解できない」という違和感。喉の奥に小骨が刺さったかのようなもどかしさ。
とはいえタビにできることは多くない。ストレージから取り出した<植物魔法の書>を盲目的に写経することぐらいしかできないのだから。
夕方、3時間ほど近く<植物魔法の書>とにらめっこを続けたタビはようやく頭を上げた。やはり理解できないことに変わりはないが、多少の進捗はあった。だいぶん崩した文字を読みやすくなってきたというだけだが。
頭が痛くなってきたタビは今日これ以上の進捗を諦めて、厨房に顔を出すことにした。ナポリタン程度の軽食なら自室で作っても問題ないが、夕食に肉を焼くなら厨房の設備で作ったほうが美味しいのは間違いない。
朝食で使った食器や調理器具を流しに漬け、新しく取り出したフライパンに油を敷いて、切り分けられたバイホーンベアの肉を焼いていく。味付けはシンプルに塩のみで。肉はかなり分厚いのでしっかり火を通すため、弱火でじっくり焼いていく。
数分もすれば美味しいステーキの出来上がりだ。面倒なので今日は他のものを作らず、蜜鬼灯をデザートに用意した。猪の肉の脂身をシンプルな塩味で食べるのは魅力的だが、口直しがないといささかもたれてしまう。
蜜鬼灯を一口で食べてしっかりと味わい尽くしたころ、食堂に来訪者が現れた。
「あ、タビお兄ちゃんもごはんですか?」
「うん、といってももう食べ終わっちゃったところだけど」
「そうですか……」
ルルはサンドイッチとクラウンコーンのポタージュを持って現れた。サンドイッチに挟まれているのはレタスと潰したゆで卵だろうか。どちらもマヨネーズを使って味付けしているらしく、かなり気に入っているのかもしれない。
醤油ベースの和風ドレッシングと合わせると美味しいんだよなとレタス入りのサンドイッチを食べるルルを見ていたら、欲しがっていると思われたのか「いりますか?」と追加分を取り出してくれたので、ややお腹がいっぱいながらもしゃもしゃと食べる。
食べている間、タビとルルの間にはほとんど会話がない。ルルがあまりしゃべらないこともあるし、タビがそれほど会話を好んでいないこともある。がらんとした食堂にシャクシャクとレタスを噛む音だけがするが、タビはこの空気は嫌いではなかった。ルルもそうなのだと思う。
サンドイッチのお礼にと使ったお皿を洗う(もちろん自分で出したものもきちんと洗った)。タビは今日この後の予定を決めかねていた。
肝心の<植物魔法の書>の写経は遅々として進まない。<基本魔法の書>の写経をしてもいいのだが、昼間の挫折が尾を引いてあまり乗り気になれない。魔石の素材は既に使い切ってしまっていて、トレントや木吊蜘蛛の素材を使った風・土の6級魔石はでっぷりと大きくなっていた。
生産関連だとあとは裏庭の薬草畑だが、どうやら午前中にルルが世話をしたらしくやることが残っていなかった。
「となると……体でも動かすか」
道場に置かれた武器ロッカーから木剣を取り出す。練習用の武器は種類をそろえたが、慣れた武器は圏以外にはない。これはほとんどのVRゲームで初期装備が剣だからだとタビは思っている。
軽くストレッチをしてから素振り。欲張らず、淡々と振り下ろしては持ち上げる。
振って、上げて。
振って、上げて。
タビは決して剣士ではない。それでも何とか武器を扱えているのは、VRゲームの経験とシステムアシストのおかげだ。
だから今後のためにもしっかりと準備をする。剣が腕の延長として扱えるようになるまで。
振って、上げて。
振って、上げて。
息が上がって、汗が噴き出て、腕が痛んで、それでもタビはやめなかった。
剣が思うとおりに動くのが楽しかった。剣が思ったように動かないのが悔しかった。死のない世界で、戦う必要がなくても戦いたかった。
比べたり、比べられる相手がいないからこそ、誰とも争うことなくひたすら自分を磨くのが楽しかった。
振って、上げて。
振って、上げて。
気づいた時には、汗で滑った手から木剣がすっぽ抜けていた。カラカラと転がる木剣が心地よさそうだと思った瞬間、タビもまた倒れこんでいた。
「はぁ……はぁ……」
火照った体をひやりと冷たい道場の床に投げ出し、ストレージから取り出したタオルを頭に被る。乱暴に顔を拭いて、ようやく立ち上がったタビは、南国梨のジュースを取り出して飲む。爽やかな梨の甘さが喉に心地いい。
「……風呂入って寝るか……。流石に疲れた……」
流石に疲れ切った体を起こして、床と体を濡らした汗をきっちり拭きとると、タビは道場を後にする。
その心中はかつてない充実感に溢れ、この生活を楽しんでいるのだった。
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