10.サイヒ街立図書館と涙の大陸
その建物はサイヒの街の貴族街の東側に立っていた。貴族街としての景観を損ねないように、言わば壁のように高く広く立てられたその建物は、この街の図書館ということだった。
「放浪の民よ、見れば貴方はこの世界に来て間もない様子。街の外の知識もないでしょう。よければこの街の図書館のビオテークという男を尋ねなさい。紹介状を書いて差し上げよう」
朝一で信頼できそうな人――真っ先に思い浮かんだ万神教会の神父に聞けばそう答えが返ってきた。長く垂らした髭を撫でる手を止めて、神父は筆記具をストレージから取り出した。
「ビオテーク……ですか?」
「あぁ。変わり者だが知恵がある。図書館で最も多くの蔵書を把握している男だ。世俗には疎いが、放浪の民の求める情報についてはよく知っているだろう」
「そんな人が……」
変わり者だというのはタビにとってはあまり好ましくない情報だったが、まとめて情報を手に入れられるのは願ってもないことだ。タビにとっての常識は未だに名もなき村での生活で手に入れられた程度でしかない。
「ありがとうございます。早速今日行ってみようかと思います」
「それがいい。……のだが1つ確認させてもらってよいか? そちらの……」
「……ルルです」
「すまない。ルル嬢も一緒に行くつもりかな?」
「……え? えぇ。そのつもりですが……」
神父はふむと考えるように髭を撫でる。視線はタビとルルのいずれにも向けられていないから、ビオテーク氏に何かあるのだろうか。
「問題があるようでしたら留守番させますが……」
「う、うむ……。その方がよい。あやつがいい顔をせんでな。気を遣わせたようですまない」
神父があからさまにほっとしたようで、逆に何がダメなのか聞いてみたくなったタビだったが、流石にルルの前で聞くわけにもいかない。
「ルルはその間どうする? 街を歩いてみる?」
「……あ、あの。できれば今後の探索用に料理を作っておこうかと……思うんですが……」
「うん、いいよ。じゃあこれが軍資金。キッチンは……」
「なれば教会の厨房を使うといい。無理をさせた詫びだ。いくつかレシピもあるから試してみるのもいいだろう」
「……ありがとうございます」
と、こうして今日の方針が決まり、タビは図書館に来ていたのだったが……。
「うーん……、明かりがついてないな……。閉まってるのか……?」
図書館の館内は直射日光が本を焼かないよう北窓になっている。日光が差し込まないので燭台などで明かりがついているのだと思っていたが、あちこちの窓から漏れてくる光はどこにも見当たらない。
閉館しているなら出直す必要があるが、それなら神父がその旨を伝えてくれてもよさそうな気がする。
「あれ、開いてる」
とりあえず開いているかどうかだけ確認しようと手をかけた扉はあっさりと開いて、タビはその中を覗き込む。今が朝かどうか疑うほど深い暗闇とその中に佇立する書棚がどこまでも続いている。
「すみませーん。神父さんから紹介状をもらって来たんですけど誰かいませんかー?」
声をかけながら館内に入る。しんと静まり返った館内では、タビの声と足音以外何も聞こえない。長時間本を詰め込んだ空間に特有の紙と埃と黴の混じった香りがタビの鼻腔を刺激する。
図書館は、タビという名前を得る前の彼が入り浸っていた場所だ。好きこのんでというわけではなく、論文を完成させるために仕方なくといった体ではあったが、それでも本がたくさんある場所はタビにとって落ち着く場所だと言えるだろう。
だから誰もいないのか、と肩を落とした時点でタビは少しばかり安心し、
「おはようございます」
「ギャアァッ!???????」
背後から唐突に現れたメイドの声に絶叫した。
「驚かせてしまったようですみません」
「いえ、こちらこそ大きな声を出してしまってすみません」
しばしの休息の後――メイドはストレージからカンテラと水筒を取り出して、明かりと水をタビに与えた――まずは二人は謝るところから会話を開始した。
「普段はこちらの図書館にいらっしゃるお客様はあまりおられないので。本日はビオテークにご用でしょうか。紹介状が……とおっしゃっていたようですが」
「ああ、そうだ。これを……渡してもらえるか? 万神教会の神父からの紹介状だ」
「かしこまりました。少々お待ちいただけますか」
メイドはそう言って正面にある階段を上っていき――カンテラは残したままなので大変暗い室内をそのまま歩いている――5分ほどして戻ってきた。
「お待たせいたしました。ビオテークがお会いになります。ついてきていただけますか」
「わかりました。よろしくお願いします」
今度はしっかりとカンテラを携えてメイドは階段を上っていく。高い本棚が設置できるように長い階段を上ってすぐ隣の部屋をノックして、メイドは「お連れしました」と声をかける。
しばらく待つが、返答はない。
メイドはすまなそうに扉を開けてタビを促した。
「……すみません、部屋でお待ちいただけますか。すぐ呼んでまいりますので」
部屋の中は応接間か執務室といった風だ。部屋の奥、窓を背にして机と椅子があり、書きかけの書類が散らばっている。手前には応接用なのか低めのテーブルとソファが。部屋の左右はやはり本棚で埋められていて、ぎっちりと本が詰まっている。
書類はあれどやはり光源は見当たらない。この暗闇の中で書類仕事をしているのだろうか。
何にせよビオテーク氏が来てから聞いてみようと心のメモに書き記す。タビはまだかなと後ろを振り向き、そして立ったままタビをのぞき込んでいるメイドと目が合った。
「……」
「……」
「……あの……」
「……バレてしまいましたね」
メイドの声は先ほどまでよりも1段低い。何事かとタビが困惑している間に、メイドはつかつかと歩いて部屋の奥にある椅子に腰かける。
「からかって申し訳なかった、お客人。放浪の民だったか。私がビオテークだ」
「……………………」
メイド姿のその男、ビオテークはそう言った。流石のタビも言葉が見つからない。少なくとも先ほどまで「彼女」という容姿は間違いではなかったはずだ、とタビは考える。いや、容姿は変わっていないのだ。華奢な肩幅はもともとの体格によるし、胸元のふくらみは詰め物でもすればいい。喉仏までタビは確認していないし、この暗さでは確認できたかも怪しい。
つまり、声さえ変えられればいいのだ。
「音魔法ですか?」
「おお、音魔法を知っているとは思わなかった。嬉しい誤算だな」
音魔法があれば声色を変えるくらいはできるだろう。何のためにやったかは謎だが……。
「……と、先に本題を済ませてしまおう。この周辺の地図だったな」
ビオテークはごそごそと机から地図を取り出す。やや古びた地図は端に皴が寄っていて、彼がそれほど収納に頓着していないことを示していた。タビは写す許可を得てから地図をのぞき込む。
「いま私たちがいるサイヒの街は涙の大陸と言われている。地図の北を上にした時、水滴のように見えるのが由来だな。この上から1/4ほどに東西に引かれた線が東西連絡路、トウロウの街とサイヒの街をつなぐ交易路だ。確かタビはこの道路を通って来たんだったな?」
「はい。ちょうど中央付近に描いてある名もなき村から」
「また随分辺鄙なところに”出た”なぁ。まぁいい。何にせよこのサイヒの街には3つ大きな道路が繋がっている。1つは先ほどの東西連絡路。1つは北西に伸びて涙滴北部港に繋がる道路。1つは南側に伸びて涙の大陸の中央部に繋がる道路。後の2つをまとめて東側外環路という。南に行くと途中で道が東西に分かれる。西に行けば涙の大陸の王都だ」
「王都は一度は行ってみたいな。この街を出るとしたら南方面か」
「そうだな。東回りにぐるっと回っていくといい。王都は何かと便利だし、南側の街なら大抵王都への直通道路があるから頻繁に寄るのもお勧めだ。大陸の気候は基本的に南ほど暑い。大陸南端は砂漠になっているから、行くなら早めに準備を整えることをお勧めする。それ以外は全体的に森林や草地が多いな。大きな山岳はここから北に向かう時だけだ。道も概ね東西で対称になってるからわかりづらいことはないだろう」
「え、えっとちょっと待ってくれ……」
タビはビオテークの言葉をせっせと手製の地図に書き込んでいく。詳細な地図を手に入れるのは【測量】や【製図】、【複写】をしっかりと上げないと難しいので、簡単なメモ程度だ。過不足なく記載ができていることを確認して、タビは次の質問に移る。
「それから古代遺跡の情報があったらもらえないだろうか」
「古代遺跡か、それなら3つだな」
ビオテークが示したのは3か所、王都の地下にあるという
「もちろん他にあるかもしれないけど、私が知ってるのはそれくらいだ。古代遺跡を探すなら、各地で噂を集めるしかないな」
「なるほど……、あともう一つ大事な話を」
「何かね?」
「音魔法の魔導書はどちらで読みました?」
「はっはっは! それを聞くか! タビ、君には学士の素質があるな!」
「もともと”出てくる”前は博士(課程)でしたしね。で、どうなんです?」
「ンンッ。すまない。これは古代水路……、まぁ王都の底で手に入れたものだ。王国騎士を5人ほど借りて破産しかけたが、その価値はあるものだった。持ち出しはできないので【複写】をきちんと上げて向かうといい」
「ありがとうございます。助かります」
とりあえず欲しい情報は手に入れたと、タビは立ち上がる。しかしそれを止めたのはビオテークだ。
「ところでだね、タビ。君は先ほど以前学士だったと言ったね。よければその当時の話を聞かせてもらえないだろうか。この図書館には魔法の研究資料や風俗資料、社会や常識をまとめた資料まで幅広く取り揃えている。君の話に応じて、君の求める資料を提供する準備があるがいかがだろうか」
ビオテークの目は爛々と輝いている。そして彼の言葉には「君も学者ならこの知識という礼を断らないだろう」という含みがある。
「……わかりました。今日はお互い情報交換の日にしましょうか」
「わかっているじゃあないか」
タビとビオテークはガシッと握手する。お互いの目にはまだ手に入れてない知識への果てなき欲求が燃え盛っていた。
この日、タビとビオテークは日付が変わるまでずっと話をしていた。お互いにとって大変有意義な情報交換になったが、タビは翌朝、ルルに叱られることになることをまだ知らない。
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