03.ERに行くまで

 彼――現在はタビと名乗っている――がERで暮らしたいと思ったのは些細な理由だった。


 何となく競争社会に馴染めなかったから。


 彼は嘘や騙しあいが苦手だった。決まった枠がある受験というシステムが苦手だった。通り抜けるために課せられる果てしない努力が苦手だった。誰かに認められるためにする全ての行為が苦手だった。

 娯楽でさえその傾向は明らかで、策謀・陰謀の類が描かれるたびに言いしれない不安を覚えた。主人公が活躍するたび、蹴散らされていく敵を憎み切れなかった。

 契約が苦手だった。誰かを信じることも、疑うこともしたくなかった。何なら、信じることも疑うことも知りたくなかった。


 彼はそんな逃げ場を探して色々なことをしたが、どれもうまくいかなかった。そのまま成人して、あと数年もすれば社会に出ると思ったとき、生きているのが恐ろしくなった。


 彼は本格的にこの世界から逃げ出すことを考えて、現実であるか否かを問わずあらゆる計画を検討した。『Ewige Reisender』もそんな折に触れたゲームの一つだ。

 当時の彼は世界観のモデルを探して古今東西のVRゲームをプレイしている最中だった。ランキングも対人要素もないゲームをいくつも渡り歩きながら、3000本以上をプレイした結果見つけたのだった。


 彼はERに感動した。

 争いのない世界。悪意のない世界。永遠の今日。全く同じ明日。

 彼にとって、求めるものは全てここにあったのだ。あとは彼がこの世界だけに依存できるようになれば問題ない。


 彼は、そこで一度目の挫折をした。

 彼の住む世界を、ERの世界に置き換えることはいくら何でも不可能だった。この世界を丸々養えるだけの権力を、富を、名声を得ることは、世界征服と変わらない労苦が待っているのは明らかだった。そしてそれは、彼の恐れる競争社会を超えた先にしか手に入れられないものなのだ。


 彼はのたうち回りながら、次の策を考えた。この時既に世界からの逃避を考えてから2年が経っていた。彼は苦悩しながら大学院に進んでいた。授業のためにたくさんの論文を読みながら、時折ある奇矯な――世間から見れば頭のおかしい――論文に目を引かれた。

 純粋な発想、大胆な行動力、否定を許さない論理構築。

 そこには彼が道理を蹴り飛ばすために必要なものが全て揃っていた。それを認識した時、彼はきっと狂人になったのだろう。


 彼は「異世界への行き方」についての論文を書き始めた。最初に行ったのは数万近い過去文献――いわゆる異世界転生もの――を読み、分類し、蓄積することだった。

 彼とてそれが実際に起こることでないことくらいは理解していた。しかし、彼にとっては必要なことだった。どれだけの時間をかけてなおやり遂げる価値のある目標、それが異世界への行き方を探すということだった。

 彼はその作業をある程度まで終えると次なる作業に取り掛かった。怪談の収集である。特に神隠しなど行方不明者が出る怪談を山のように集め、行方不明者が発見されない事件の記録が部屋を紙束の海にした。

 彼はトラックに轢殺される時のエネルギー総量を、第11次元に逃れるエネルギーの総量を、日常生活で発生する現象の乱数的偶発性を、世界観を固定する思想的強制力を調べた。


 2000頁に及ぶ彼の研究論文はこれらの理論の完成形として組み上げられ、文学、民俗学、物理学、統計学、心理学など11の分野の専門家の査読を経て完成したものだ。


 彼がこの論文を完成させたとき、彼は博士課程に進んでいた。彼が大学で何の研究をしていたのか、それは既に彼にとって大きな問題ではなかった。今後12か月で学習・研究すべきことを、彼は既に終わらせていたからだ。

 そして、既に時間は限界だった。博士課程を修めてしまえば、いずれにせよ彼の恐れる社会との関わりが必須となってくる。彼は、その前に行動を起こす必要があった。


 事前に協力してくれた研究者たちには謝礼メールを送ってあった。協力者たちの中には彼が姿を見せないことに気づいて机の上に残したたった1編の論文を、読むことがあるかもしれない。

 論文を焼き捨てるかどうかは最後まで悩んだ。自身が納得できれば、それでいいというのも確かだった。査読してもらった部分は各査読者に贈ってあるので、彼が独自で書いた部分を除けば焼く必要はなかったのだが。


 結局、彼はその論文を焼き捨てられなかった。この世界において唯一心残りになる可能性があったが、我が子のような存在を殺すことは彼にはできなかったのだ。






 彼は書き上げた論文を家に置き、家から30kmほど離れた場所の高速道路上の歩道橋に来ていた。時刻は深夜を過ぎて明け方も近くなってきたころ。

 彼はそこで踊りながら乱数調整をしていた。現実に影響力のある乱数調整はほとんど効果がないが、ことそれが異世界であれば、ある程度有効な効果を発揮することを、彼は突き止めていた。

 彼は不可思議な踊りを繰り広げながら――もちろんこんな時間にこんな場所に来る人はいないので問題ない――明日からの生活を思う。研究の休憩時間を使って、彼はERの世界を旅し続けていた。体の動かし方、基本的な攻略情報、特殊イベントで入手できる称号や魔法……。それでもわからなかったことは数多い。魔法の仕組みはかなり難解で検証班を困らせたし、ダンジョンの難易度は総じてかなり高い。彼は向こうでその続きをするつもりだった。魔法だけはなんとしてでも謎を解き明かさなくては気が済まない、と思うのは彼が仮にも学者の端くれだからだろうか。

 彼は踊りを止める。乱数調整はうまくいっただろうか。答えを今ここで見ることはできない。

 彼はしばらくそのままトラックがやってくるのを待って。


 ――躊躇いなく、その前に飛び降りた。


 遺体は発見されなかったという。

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