アザミの花

増田朋美

アザミの花

アザミの花

その日は、とにかく寒い日で、昨日寝る前はあんなに暑かったのに、今日に限って、風邪をひいてしまったぜという声が、あちらこちらで聞こえてくるのであった。まったく、近頃の気候は、急に熱くなったり、寒くなったりしてしまうから、本当に困ったものだなと、皆そういうのだった。そういうわけで、風邪をひく人も多くいるが、なによりも、体には異常がないのに、体調を崩す人が続出するような気がする。

「えーと、田村梢さんですね。年は、30歳。職業欄に何も書いてないけどどうしたの?」

蘭は、目の前にいるお客さんが、予約をしたときに、メールで送ってきた自己紹介を読み上げた。

「あ、あのそれでは、あかんということでしょうか?」

お客さん、つまり田村梢さんは、そういうことを言った。つまり彼女は、この富士市の出身ではなくて、大阪とか、奈良とかそっちの方のひとなんだなということを感じさせた。

「いや、其れは、ありません。無職の方でも、施術は致しますよ。でも、ここに来られたんですから、何かわけがあるのでしょうか?」

と、蘭が聞くと、

「はい、うちは、吉原の食堂に勤めていたんですが、それがつぶれてしまいましてね。新しい仕事、探しているんですけど、何も無くて。だから、自暴自棄になってしもうて、ここに来させてもらいました。」

と、梢さんは答えたのであった。

「わかりました。じゃあ、何を入れて欲しいとか、そういう希望はありますか?」

「それも、わからんのです。ただ、もうこれ以上変なことをしないように、戒めるために入れたいと思って、今日は来させていただいたわけでして。」

確かにそのために入れ墨を入れるお客さんは多い。これ以上リストカットをしないとか、変わった人では、お酒をこれ以上飲まないために入れたいと言ってくる人も少なくない。蘭も其れは良いと思っている。入れ墨というと、どうしても暴力団を連想してしまう人が多いが、実際には、そういう心を病んでしまった人たちが、次のステップに移行するために入れたいとやって来ることが多いのだ。日本ではこの事実はあまり公にされたことはないが、海外では、そういう事をしている刺青師が、テレビで取り上げられたことがある。

「そうですか。じゃあ、何を入れたいかを決定することから始めましょう。好きな花でもいいし、動物なんかでもいいし、あるいは、宗教的なものでもいいと思いますよ。もちろん、すべて手彫りで、機械彫りは全くできませんけど。」

と、蘭は、彼女にそういって、好きな花を選んでもらうように促した。

「そうですね。好きな花は、アザミやと思います。一寸とげがありますけど、それでもかわいいと思ってしまう。」

「ああ、アザミですか。確か、自由とか、独立とか、そういう意味を持ちますね。スコットランドでは、国花になっているとか。」

蘭がそう相槌を打つと、

「はい。うちはアザミが好きです。」

と、彼女は答えた。ということは、何か縛られているものがあって、自由になりたいのかなと蘭はなんとなく思った。

「了解しました。じゃあ、お体のどこに入れましょうか。」

「そうですね。入れやすいのはどこでしょうか。」

「どこって、言われても、顔とかそういう場所以外なら彫ることはできますが、皆さんがよく入れていかれるのは、腕や背中などが多いかな。」

と、蘭はにこやかに答えた。

「あ、ありがとうございます。じゃあ、背中が一番いいでしょうか。そこにアザミの絵を書き込んでいただければ。」

という梢さんに、蘭は、

「了解しました。いくつか下絵を描きますので、それを選んでいただいてから、施術に入ります。彫る日は、しっかりと、ご飯をたべて、体力をつけてきてくださいね。」

と、彼女に言った。梢さんは、はい、わかりました、と関西弁の抜けない発音できっぱりといった。そして蘭が、彫る日をいつにするか、カレンダーを見て、考えていると、インターフォンが五回なる。

「おーい蘭。いるかあ。早く出かけようぜ。」

とやってきたのは、杉ちゃんだ。全く、今日は午前中は仕事があるから、おわりになるまで待っててくれ、と言ったはずなのにな、と蘭は、大きなため息をついたが、

「まだ終わってないのかい?12時には終わるって言ったはずだよな。もう12時過ぎたから、いいのかなと思って、来させてもらったんだんだけど?」

そういう杉ちゃんは、もう玄関から入ってきて、蘭の仕事場に入って来る。段差のない家というのは、こういう時に不利になるものだ。段差があれば、一寸入るのは遠慮しようという気になるのであるが、杉ちゃんという人は、そういうことはしなかった。

「あらあ、ずいぶんとかわいいお客さんじゃないか。何か困った事でもあるのかい?こういうところに来るんだもん、何かわけがなければ来ないよな。」

と、杉ちゃんに言われて、梢は、一寸困ったような顔をした。

「ははあなるほど。何かいやな思い出でもあったのか。其れは一寸言いたくないと思うんだろうが、人間一つや二つは、言いたくないというか、恥ずかしい過去を持ってるさ。まあ、消すということはできないから、それを捨てるか、向き合うかのどっちかしかないわな。でも、捨てるというのもな、よっぽど勇気のある人間じゃないとできないんだよ。出来たやつは、まるでできないやつを、ダメな奴のように見るけどさ、まあ、出来なくてもしょうがないと思ってよ。」

杉ちゃん、そんなこと言って、何を言いたいんだと蘭は思ったが、

「まあ、つらい過去を忘れることはできないが、新しい事を取り入れるということで、それを軽減することはできるぞ。どうだ、それを試してみないか?もちろん、蘭がしてくれることも、参考になるけどさ。」

と、杉ちゃんは、カラカラと笑った。

「そうですか。そういう事をやって、過去を捨てることはできるものでしょうか。うち、いろいろ、精神療法なども試したんですけど、ちっとも変わらへんって、家族に叱られたばかりなんです。」

梢は、小さくなって、申し訳ないような口調で言った。

「誰でも、お前さんの家族は、関西弁を話すのか?」

と、杉ちゃんが言うと、

「はい。父も母も、大阪の出身やさかい、うちの中ではずっと。うちが、こういう身になって、それで逃げてきたんです。大阪の知り合いの人が、うちのこと、疫病神いうたり、働いておらんから親御さんにとか、そういうこと言うから。」

と、答える彼女。確かに、関西のひとは、なかなか方言が抜けないというかそんな癖がある人が多いような気がする。中には、関西訛りをけそうと努力している人もいるが、大体のひとは、関西弁というのにほこりを持っているのか、直そうとしない人が多い。

「まあ、そうなのね。それなら、外へ出たときは、その関西弁を話すのをやめてみたらどうだろう?少なくとも、言語障害とかそういうわけではないんだし。そうすれば、新しい土地へ来たんだっていう事を、もうちょっと感じ取ることができるかもしれない。」

と、杉ちゃんは、ざっくばらんに言った。蘭は、関西の人に、そういうことを言ってもいいのか疑問だったが、杉ちゃんという人は、そういうことを一切気にしないで言ってしまうひとであった。

「うちも、こうして努力はしてるんやけど、どうしても、抜けなくて。どうしたらいいのかわからへんのです。」

多分彼女は、何か居場所も何も見つからなくて、それで悩んでいるのだろうと蘭も思った。多分、彼女は経済的には恵まれていると思われた。でも、それが多分、自分の力ではなくて、親か、夫という人たちが作ってもらっているというやり方になっているため、彼女は苦しんでいるのだと思われる。

「まあ、きっと、親御さんのことを変えるというのは難しいと思います。でも、それでももう少し明るくなることはできるのではないでしょうか。過去は捨てるとか、忘れるということは、非常に難しいんですけど、其れよりも、明るく生きようと思ってくれれば、きっと変われますよ。」

と、蘭は、彼女に言った。すると杉ちゃんが、

「はいはい。そうそう。人生楽しく明るくが一番なの。成績とか、学歴とか、そういうことは一切関係ないんだよ。そういうことは、ただの触りしかならないから。其れよりも、大事なものは、順応することだよ。周りの環境に何もトラブルも起こさないで、うまく染まれることこそ、健康といえるんだ。」

と、またけらけらわらって、梢の肩をたたいた。

「じゃあ、梢さん、二週間ほど時間をいただけますか。アザミの花の下絵を描きますから。そしてから、筋彫りに入りましょう。まあ、多少痛みはありますけれど、自殺未遂をしたようなときの苦しさを経験していれば、大したことないと思いますよ。それでは、二週間しましたら、またここへ来てください。」

と蘭が、手帳を開いて予定を確認しながらそういうと、梢は、はいわかりましたと静かに頷いた。

「じゃあ、また来てください。下絵をおかきします。」

「はい。おおきに、じゃなかった、ありがとうございました。」

と、彼女は、蘭と杉ちゃんに軽く頭を下げた。

「今日からは、別のお前さんになるんだぜ。刺青というのはね、一度入れたら、二度と入れる前のお前さんには戻れないんだからな。其れを頭の中に叩き込んで、ちゃんと入れる意味を考えてくれ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「はい、わかりました。」

と彼女は言った。蘭がもう帰ってもいいですよと言うと、彼女はおおきにと言って、椅子から立ち上がった。彼女が帰っていく様を、杉ちゃんと蘭は、にこやかな顔して見送った。

ところが、その数日後。ピンポーンという音がして、蘭の家のインターフォンがなる。何だと思って蘭が、ドアフォンを通して見てみると、先日こちらにやってきた田村梢だ。

「あの、すんまへん。どうしても、つらいことが在って、うち、ここまで来てしまいました。」

と、彼女はそういうことを言う。

「何かあったんですか。」

蘭はドアフォンに向かってそう話しかけた。ちょうど台所で、カレーを作っていた杉ちゃんが、

「蘭、寒いと思うから、中へ入れてやりな。」

と、言ったため、蘭は、どうぞお入りくださいと言って、彼女を中へ入れた。彼女はジャージ上下に運動靴という姿をしていて、何か農作業でも手伝っていたのかと思われる風貌をしている。

「お前さんどうしたんだよ。なにか家畜の世話でもやってたのか?」

と杉ちゃんが言うと、

「うち、普通に暮らしたいんです。なんでも、家で作ってしもうて、スーパーマーケットに行く必要もないっていう生活は、もういやや。普通に、食材はスーパーマーケットで買って、普通にご飯食べて暮らしたい。」

と、彼女は少しばかり訛りながら、そういうことを言った。

「はあ、なんで、そういうことを思うんですか。だって、野菜やお米なんかを自分たちで作って、不自由しないっていうのは、」

と蘭が言いかけたが、

「蘭よせ。確かに僕たちには、野菜を自給自足するのは、幸せなように見えるけど、そういうことは、彼女には不幸なことだろうから。」

と、杉ちゃんが、そういうことを言った。其れを見た彼女は一寸、うれしそうな顔になる。

「ええ、そうなの。だって、周りのひとはそういっとる。だってうちが働いてないから、お父ちゃんもお母ちゃんも、野菜を作ることを強いられて、不幸な家だって。其れはみんなうちのせいやもん、もういるだけで疲れてしもうて、どうしようもないんよ。」

「そうですか。じゃあ、それを言っているのはどこの誰なんだろうかな。家族か?それとも、親戚か?それとも、近所のひととかそういうひとたちか?」

と杉ちゃんは彼女に向かってそういうことを言った。

「うちの周りには、親せきはおりまへん。ただ畑を借りて、親が作業をしていると、どうしてもうちが

、親をそうさせていると言われているような気がしてならへんのです。」

「ほんなら其れは、妄想というべきじゃない。だったら、精神科とか、そういうところへ行って、一寸楽にしてもらうとか、そういうことをしてもらえ。薬じゃだめだと思うのなら、そういう話を聞いてくれる、専門家の方を探すんだな。」

そういう杉ちゃんを、彼女はなぜかいとおしそうに見つめていた。杉ちゃんは、

「別に答えを出しているわけではないよ。そうではなくて、ただそういう時は、そうすればいいと言っているだけだ。事実何て、それに善悪も甲乙もつける必要ないんだからな。ただあるだけしかないんだから。其れを、思ってくれれば、人生もうちょっと楽になると思うよ。」

と、にこやかに笑った。

「えーと、あの、まだ、お名前もうかがっておらなかったですが、彫り師の先生のお知り合いの方ですか?」

と、梢はそう杉ちゃんに言った。

「ああ、僕の名は影山杉三だが、杉ちゃんと呼んでくれ。杉ちゃんと。変に称号付けるのは嫌いだからね。」

杉ちゃんがいつも通りの自己紹介のパターンを言うと、

「そうなん?杉ちゃんと呼べば、ええんですか。なんか失礼な気もしてしまうけど。」

と彼女は答えた。

「いやあ、何も気にしないでいいんだよ。僕だって、ただの馬鹿にすぎないし、馬鹿だから明るく振舞えるのであって、それ以外何もありませんもの。それだけの事です。」

杉ちゃんが頭をかじりながら、そういうと、

「杉ちゃん、うち、杉ちゃんのことが好きなりました。杉ちゃんもうちと付き合ってくれんでしょうか。」

と、梢は杉ちゃんに頭を下げた。

「いやあね、僕は恋愛というものには、あまり興味がないので其れはちょっと、、、。」

と、杉ちゃんはそういうのであるが、

「うち、杉ちゃんのこと、好きやねん。本当に、好きやねん。杉ちゃん、うちと一緒につきあって。」

梢は、杉ちゃんにそう懇願する。

「そりゃいけないよ。僕みたいなバカを好きになったら、本当に頭がバカになっちまうよ。それでは、いけない。其れよりも、お前さんは、もっとましな人と付き合えよな。そのほうがよっぽどお前さんのためになるってもんだ。」

「ためになるって、杉ちゃんが、教えてくれたやないの。事実は、ただあるだけやって。其れを教えてくれはったのは、杉ちゃんやろ。其れを教えてくれて、お礼につきあいたいと言っているだけなのに。」

梢の話に、かなりの関西訛りが多くなった。多分きっと、興奮してきているのだろう。

「そうだけどねえ、お礼なんて、する必要もないの。僕はただ、そういうことがあるって言った、ただのバカ。そう思ってくれ。」

「でも、うちに教えてくれはったんやもの。其れに、うちは、体しか商売になる道具なんてあらへんもの。みんなが、食べ物をつくってくれたり、服を買うてくれたり、住む場所を提供してくれて、あんたは幸せやねって、いってくれはるけど、うちは苦しくて、結局、入れ墨に頼るしかあらへんかったのに、それ以外の方法教えてくれはったのは、杉ちゃんやもの。其れなのに、うち、何もお礼するものが在らへん、、、。」

そういう彼女に、

「いやあ、本当に気にしなくていいんだよ。それだけの事だから。大事なものはね、そういうことを幸せと思うのは、もう少し後でもいいから、お前さんが、のんびりと自分のペースで生きていけることが、ご家族にとっての恩返しじゃないいかな。」

と、杉ちゃんはまた頭をかじった。

「そうですよ。それに、体しか商売になる道具がないと言いますけどね、あなた、もしかしたら、売春業とか、そういうことしていたんですか?」

と、蘭が聞く。

「それは、いけないやろうか。」

彼女は、杉ちゃんたちにまた同じことを聞かれた、という顔になった。

「ということは、どこかにいたんですね。」

と蘭は、彼女にまた聞いた。

「うちは、学校に行っても何もしてもらえへんで、高校辞めて、飛田へ勤めていた時があった。」

と、小さい声で彼女は答えた。

「そうですか。飛田ですか。でも、其れも仕方ありません。其れは仕方ないことですから。そうするしかなかったことにしておきましょう。それでもですね。もっと自分を大事にしてくださいね。体を売るしか価値がないなんて、そんな寂しいこと言わないでくださいよ。」

と、蘭は、そう彼女に言った。

「そういうのは、えらい人であれば口をそろえてそういうことを言います。でもうちは、そうするしか能力は、ありまへんで。」

「いやあ、ちょっと待て。その飛田というところは、どういう風に書くのかは知らないが。」

と、泣き出す彼女に杉ちゃんが、こんなことを言いだした。

「すくなくとも、お前さんはとべるよ。だってとびたって言う所にいたんだろ、だったら、お前さんは飛べる。」

「杉ちゃん、何を言っているんだ。変なことは言わないで挙げてよ。彼女は、飛田にいたと言っても、苦しんできたと思うよ。吉原炎上の話を知らないのかよ。あそこに出ている女性たちは、みんなつらいものを背負って、生きてきたんじゃないか。」

と、蘭は、急いで訂正しようとしたが、

「そうなんだけどね。飛田に体を売った経験があるじゃないか。そういうことを二度と繰り返さないように、呼びかけることはできるだろう。其れを何とかすることはできないもんかな。そういう意味で、お前さんは飛べるといったんだ。」

と、杉ちゃんはカラカラと笑った。

「もしかしたら、ほかにも学校でうまくいかなくて、遊郭に体を売ろうとするやつがまた出てくるかもしれないだろ。そういう時に、お前さんは、堂々とろくなことがなかったと言えるんじゃないか。」

「そうですよ。こればかりは杉ちゃんに軍配です。僕もそれをしてほしいと思います。其れしか価値がないなんてことは到底ありません。もし、ご家族が一生懸命やっているのにと言われたら、私は、これから、何か伝えるための、準備をしているんだと思ってください。それに、生活は変えられなくても、自分の意識というものは変えることは、出来ますからね。其れを忘れないで。」

蘭は、杉ちゃんの話しを、まとめるように言った。できる限り、彼女には飛田遊郭で働いていたという事実にはさようならしてもらいたいと蘭は願った。

「だから、それを変えるために、アザミが役に立ってもらえたらと思いますよ。」

蘭は、彼女を励ましてあげられるような下絵を連想しながら、そういった。



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アザミの花 増田朋美 @masubuchi4996

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