ルドベキア

朝比奈 志門

第1話 adolescence

 


 ぽんぽんと、地面を跳ねるボール。次第にゆっくりになっていき、やがて止まった。

 中庭の端から端まで飛んで行ったので、ここからは結構な距離がある。それをシオンは緩慢な動作で追いかけた。



「まったく、のろまだなあ」



 ルドベキアは腰に手を当て、不平を言う。

 そこまで早いボールを投げたつもりはなかったのだが、シオンは受け取ることができなかったのだ。絶望的な運動神経をしている、とルドベキアはその長い赤髪をいじりながら、口をとがらせた。



「すみません、運動の機能はついていないので」

 


 やっとの思いでボールを拾い上げると、シオンは既定の位置まで戻り、えいっと投げ返す。

 だが、案の定、ボールがルドベキアの胸元に届くことはなく、空しそうに中庭の柔らかな芝生の上を転がった。その光景を見て、赤髪のおさげを垂らした少女は、はあとため息をつく。



「知ってるよ。シオンが家事専門のアンドロイドだってことは。運動の機能なんかいらないんだろうけど、せめてもうちょっとさあ……」

 


 ルドベキアはシオンをまじまじと見つめた。

 乳白色の髪に、質素なメイド服を着こんだ年上の女性。その瞳には一切の感情の揺らぎが感じられず、不気味だ。お尻のあたりから、ちょうど動物のしっぽのように充電用のケーブルが伸びていて、それはルドベキアと同じ生き物ではないことを示唆していた。

 


 アンドロイド。機械で作られた人形。

 なんの因果か分からないが、生まれてこの方、ルドベキアはそれと一緒に育ってきた。特別、嫌いなわけではない。気に障ることも多々あるが、それでも「いて当たり前の存在」として認識していた。

 


 少女はアンドロイドが運動音痴であることは知っていた。ではなぜ、ボール遊びを提案したかと言うと、暇で暇で仕方がなかったからだ。それ以外に理由はない。相手が運動音痴なりに、どうにかして遊びを成立させたかったものの、良いアイデアが思いつくこともなかった。ボールをぶつけるだけというのもなんだか忍びなく、ルドベキアはシオンを遊び相手とすることを諦めた。



「あーあ、つまらないの……」

 


 そう言って、中庭を後にする。

 一人残されたシオンは、ルドベキアが建物の中に入っていくのを確認すると、いそいそとボールを倉庫に片付け始めた。



***



 眼下には、白く、分厚い雲が流れている。遠くを見渡すと白と青の切れ目が望むことができるが、逆に言えば、窓から見える光景はただそれだけだった。



  生まれ育ったこの養育院は、上空に位置している。ゆえに、ルドベキアは自身の足で本物の地面を踏みしめたことが無い。養育院の外で起こることといえば、もっぱら本の中の知識でしかなかった。

 養育院にはたくさんの本がある。とはいっても、それは有限だ。ルドベキアはすでにひとしきり読破しており、他に娯楽と呼べる娯楽は無いのも相まって、暇を持て余していた。



 数か月前には、赤毛の少女とアンドロイドの他に、二人の人間がいた。

 名はエリカとロウバイ。エリカはお姉さんで、ロウバイはお兄さんだ。さらにさかのぼると、何人か年上がこの養育院にいたが、もう名前もよく思い出せない。ともかく、ルドベキアは物心ついてからずっと、彼らとこの養育院で過ごしてきた。

 だが、彼らは忽然と姿を消した。一人、また一人と減っていったのだ。



 結果、ルドベキアは遊び相手を無くした。

 よく整えられたベッドに潜りながら、ルドベキアは部屋の掃除をするシオンに問いかける。



「シオン。エリカたちって、どこに行ったの?」

「外、ですかね」

 


 シオンは淡々と答えた。



「どうして?」

 


 ルドベキアは不満だった。

 どうして、この養育院を出ていったのか。たしかに外の世界が気になるのも分かる。そういう気持ちは自分も持っている。だが、何も言わず、自分だけを置き去りにしていくなんて、あんまりではないだろうか。出ていくにしても、もう少しやり方があるはずだ。



「彼らは大人になったからです」

「また、それだよ……」

 


 この質問をすると、決まってこう返ってくる。いかんせん、ルドベキアはこの答えが気にくわなかった。



「大人って、どうやってなるの?」

「さあ、私にも分かりません」

 


 彼らはよく分からないものになったのか、と納得できるほど、ルドベキアは物分かりが良くはない。ぶーぶーと文句を言った。

 できることなら、早く大人になって、彼らと同じように外の世界に行きたい。こんな退屈な場所から抜け出したい。では、どうすれば大人になれるのか。彼らにあって、自分には無いもの。まるで心当たりがなかった。



「昔は、ここに大勢の子がいたんでしょ?」

「ええ」



 養育院にある、多くの遺産を思い出す。やたら広い敷地、無数にある部屋、ベッド、トイレ、壁の落書き。その全てが、自分が知っているよりも遥かに多くの子供がここにいたことを物語っていた。



「全員、大人になったの?」

「全員、大人になりました」



 多くの子供が達成してきた。その事実は、ルドベキアの心に不安の種を蒔いた。自分だけが取り残されている。自分だけが大人ではない。必死に考え込むも、やはり大人になるための条件は分からなかった。



「あーっ。もう、つまらない!」

 


 ルドベキアは大の字になって、天井を見上げた。



「まともな遊び相手が欲しいっ」

「……そうですね。どうにかできたらいいんですが」

「どうにもできないの?」

「うーん。人間は難しいですね」

「どうして?」

 


 養育院に来たのは自分が最後。なぜ、私以降の子供がやってこないのだろうと、ルドベキアは純粋に疑問だった。



「待っていれば、いずれ新しい子は来るとは思いますが……。何年かかるでしょうか」

「そんなに来れないものなの?」

「外の人間は気づいていないんですよ。不平等が欲望を生むということに」

 


 ルドベキアは首をかしげる。

 シオンが何を言いたいのか、とんと分からなかった。不平等が欲望を生むって、どういうことだろうか。



 自分なりに具体例を考えてみる。エリカはすごい頭が良くて、それに負けじと勉強した時期があった。それはたしかに、不平等から欲求が生まれている。同様のことに、外の大人は気づいていない? なんで?

 悩むルドベキアを見て、シオンはおもむろに口を開く。



「人間は難しいですが、犬とかなら、あるいは……」

「ほんと⁉」

 


 赤毛の少女は、目をキラキラと輝かせる。



「ただし、約束です。家事を手伝ってください」

「えー……」

 


 目の輝きが、みるみるうちに失われていく。

 ルドベキアはつまらなさそうに、「なら要らない」とつぶやいた。

 というのも、少女は家事が大の嫌いなのだ。第一、見るからに面倒くさい。何のためにやるのか意味が不明だし、複雑でとても覚えられそうに思えない。遊び相手は欲しいといえど、それだけはゴメンだった。



「……ねえ、私の産みの親ってさ。今何してるのかな」

 


 暇つぶしにと、ルドベキアはふと思ったことを嘯いた。



「さあ。何しているんでしょうか」

「本の中だと、皆『家族』ってのを持っているわ。どうして私にはそれが無いの? 私も家族が欲しい」



 本で読んだところだと、人は産みの親に育てられて、そのまま成長していくものらしい。ルドベキアの目には、皆楽しそうに映った。切っても切れない、特別な関係。強固な絆。そういったものは、憧れの対象だった。

 


 少女はシオンの口ぶりから、産みの親が健在であることを確信していた。

 では、どうして自分を捨てたのか。そもそも、自分は捨てられたのか。分からないことだらけで、寂しさや、怒り、憎悪といったものは抱こうにも抱けなかった。

 


 ただ、胸の中にあるのはちっぽけな嫉妬だけだ。本の中の住人と、自分を比べたときに生まれる劣等感。自分は、何か自分の中心を構成していたであろう塊が、透明なのだ。遊び相手以上に早急に必要ではないのだが、ただ漠然と、己が何者なのか、得ることで確かめてみたいという好奇心がくすぐられた。



「あなたに家族がいないのは、それが決まりだからです」

「決まり?」

「ええ。とても高尚な決まりですよ」

「ふうん」

 


 高尚と言われても、よく分からない。外で何が起こっていて、何が定められているのか。気にはなったが、いまだ子供である自分には、到底関係のない話だった。それでも多少はルドベキアなりに想像して、推測する。



「おおよそ、子供を産んだらここに預けることになっている、とかね」

「さて、どうでしょうか」

 


 肝心なところをぼやかすシオンに、ルドベキアはむっとした。

 そこまで強く知りたいわけではない。だが、答えを知っているくせに、意地悪く焦らすのは癪に障った。



「あーあ。シオンはどうせ機械だから分からないんだろうなー」

 


 わざとらしく挑発するように、棒読みでそう言い放つ。

 深い考えなしに飛び出た一言。シオンはちらりと一瞥すると、柔らかに微笑し、そして何事も無かったかのように掃き掃除を続けた。それはルドベキアにとって、面白くない事だった。



「教えてくれなきゃ、黒い扉開けちゃうよ」

 


 黒い扉とは、食堂のすぐ近くにある大きな扉のことだ。どう見ても異質で、その先に何があるのかよくエリカたちと議論したものだった。



「絶対に開けてはいけません。あれを子供が開けることは禁じられています」

 


 シオンはいつになく、険しい表情になる。

 大人になるまで、黒い扉を開けてはいけない。それはこの養育院に伝わる、鉄の掟だった。破れば怪獣に襲われると、冗談交じりで脅されたりしたこともある。

 外の世界を教えてくれなければ、黒い扉を開ける。軽い冗談のつもりだったが、何の理由も説明されずにはねつけられると、往々にして意地になるものだ。

 その後も幾度となく念入りに釘を刺される。絶対に開けてはいけない、絶対に開けてはいけないと、バカの一つ覚えのように繰り返された。

 


 ルドベキアはふんと鼻を鳴らし、目を閉じる。やがてまどろみの中に、落ちていった。



***



 自分の推測は、どこまで合っているのだろう。

 すでに読み飽きた本を放り出し、ルドベキアはそんなことを考える。

 


 子供を産んだら、皆等しくここに預ける。これはたしかに、ありえそうな話ではある。だが、だとしたら気になる点もいくつかあった。

 第一に、子供がしばらくここにやってきていない。十四年前に来た、自分で最後だ。それほど長い間、誰一人として生まれていないというのは考えにくい。

 第二に、ここに閉じ込めておく理由が分からない。黒い扉を開けるには、大人になる必要があるだなんて面倒な条件、果たして必要なのだろうか。外の世界と子供を切り離しておくメリットがどこにある?

 第三に、子供を預けるのはなぜ? 本の中では、産みの親が子供を育てている。あらゆる可能性への期待と、産み落とした責任がそうさせているのだろう。だが、現実の世界ではそうはなっていない。恣意的なものを感じる。



 考えれば考えるほど、深い沼の中に沈んでいくようだった。そもそも、前提が間違っている可能性の方が高い。本当に物語の中のような世界があるのだろうか。自分がただ単純に捨てられたということを、シオンは誤魔化していたりはしないだろうか。

 


 大人になったら養育院からいなくなる。そして、大人にならなけらばあの黒い扉は開けてはいけない。この二つの事実を鑑みるに、黒い扉は外に繋がっているとみて間違いはないだろう。答えはあの先にあるはずだ。

 ルドベキアは意を決した。どうせやるべきことは他に何も無いのだ。あの扉をさくっと開けて、外に出てやる。



***



 黒い扉の前に立ち尽くすルドベキア。

 それは明らかに他の扉より頑丈な造りで、高級だ。光すら反射しない重々しい漆黒は、威圧感にあふれ、ルドベキアの足をすくめた。

 ごくりと生唾を飲み込み、そっとノブに手をかける。本当に開いてもいいのだろうか。あれだけ、シオンに忠告されたのだ。開けたらどうにかなってしまうに違いない。

 自分は果たして大人なのだろうか。心の内に問いかける。



(私は大人だ。だって、エリカやロウバイと、何も違わないもん)



 彼らだっていなくなる前日は、自分と同じようにどこか幼さを残していたことを覚えている。さして差異はないだろう。エリカたちがこの黒い扉を開けて外に出たのだとしたら、自分にも問題なく開けられるはずだ。



 深呼吸する。にわかに、鼓動が早くなる。

 感覚が意に反して鋭敏になり、肌にまとわりつく空気がより一層冷たく思えた。

 手が小刻みに震えだす。必死にそれを抑え込み、唇を噛んだ。ダメだ。恐れるな。ルドベキアは自分に言い聞かせる。ここで退いたら、もう二度とこの扉に触れることはないような、そんな予感がしたからだ。



「ええい!」



 ぐっとノブに力をこめ、回す。

 ——だが、扉は無情にも鍵がかけられていた。がちゃがちゃといじっても、ビクともしない。しまいには「だーっ!」とイラついた声を上げ、漆黒の扉を蹴り上げた。



 拍子抜けしたように、その場にへたり込むルドベキア。

 その胸中には二つの感情が渦巻いていた。

 いまだここに居られるという安心感と、自分は大人ではないとつっぱねられた嫌悪感だ。

 不思議と、ほっとしている。あれだけ外に出たがっていたのに、いざとなるとここを離れたくないという気持ちがあった。先輩たちは誰一人として帰ってきていない。それはつまり、一度外に出たらここに戻ってこれないことを意味する。環境が変わってしまうのは、面倒なことだ。

 ただそれでも、自分は外に出るに値しないという事実は、虫の悪い話だった。どうにも子供扱いされているようで、腹立たしい。



「大人、か……」

 


 嫌でも大人について考えざるをえない。

 それが何なのか、分からなければ永遠に暇のままだ。

 本の中では、大人は恋をしているように思える。あいにく、ルドベキアは感情移入することはあれど、実際にそのような思いを抱いたことはなかった。この養育院にもロウバイという男子がいたが、あまりタイプではない。もしかしたら、そういう感情の有無がトリガーになっているのかもしれない。

 そこまで考えて、もしかして自分はすでに詰んでいるのでは、と思い始める。



「ま、しょうがないかあ」



 開かなかったものはしょうがない。悩んだところで、どうにもなるとは思えなかった。遅かれ早かれ、どうせ時間が経てば大人になるだろう。焦ることもない。暇なら暇なりに、有意義かどうかは置いておいて、時間自体は潰せる。

 ——本当にそうか?

 これは強がりだ。だが、そうでもして納得していないと、体のどこかが崩れてしまいそうだった。

 ルドベキアはおもむろに立ち上がり、ふわあとあくびを噛み殺す。そして、何事も無かったかのように自室に舞い戻った。

 


***


 

 部屋の隅ですばやく動く、黒い生物。

 蜘蛛だ。八本の足を器用に動かし、捕まえんとするルドベキアの手をすれすれでかわしている。

 ルドベキアは滅多とない他の生物との邂逅に、胸をときめかせていた。捕まえようとすれば、捕まえることはできる。だが、少女としては、もう少し遊んでいたかった。

 だから手を近づけては捕まえるフリをし、追い回す。飽きもせず何時間とその遊びを続けていた。



 蜘蛛が動くのを見るたびに、外界の存在を感じる。本の中での出来事は、ある程度外界で実際に起きているんだと確証が得られるような気がした。

 小さな黒い生物は、急な敵の襲来に逃げ惑う。

 感情は読み取れないが、必死だ。壁側に追いやり、そろそろ本気で捕まえようとルドベキアが手を伸ばすと、ちょろちょろと脇をすり抜けた。「あっ」と声を出して、少女は蜘蛛を視線で追う。それは本棚の後ろに回り込み、黒い影の中に姿をくらましてしまった。



「うーっ」



 ルドベキアは腰をかがめて、本棚と壁の間の狭い隙間を覗き込む。

 蜘蛛の姿はすでに見えない。諦めてもいいが、どうしても捕まえたい。そのためには、重そうな本棚を動かさなければならなかった。



「やるかあ」

 


 嫌々ながらも、ルドベキアは本棚を動かすことにした。立てられている幾つもの本を落とさないように、慎重にずらしていく。半歩ほど動かしたところで、異変に気付いた。



 本棚の後ろに木製の扉がある。黒い扉と比べると、貧相で、粗末な扉だ。蹴破ったら壊れてしまうだろう。蜘蛛よりも、ルドベキアの興味は俄然そちらに向いた。

 本棚を動かし終えると、少女は早速扉のノブに手をかけた。この先には何があるのだろう。もしかしたら、あの黒い扉はダミーで、ここが外に繋がっている本当の扉なのかもしれない。そんな淡い希望を抱きつつ、扉を開いた。



 広がっていたのは、薄暗く、埃臭い空間。広さは自室よりも小さく、物置のようにも見える。何があるのかと見渡してみるが、いかんせん暗く、よく分からない。目が慣れてきた頃合いに、凝らして見てみると、どうやら数十体にもおよぶ人形らしきものが並べられているようだった。



「……⁉」

 


 ルドベキアは人形の顔を覗き、絶句する。それはどこからどう見ても、シオンのものだった。新品の体ではない。傷や断線があちこちにあり、使い古されている。つまり、これは今までシオンだったものたちだ。

 


(シオンが複数いる……? 何のために……?)

 


 恐怖はたしかにあった。自分が今まで接してきたものが、果たして本当にシオンなのか、何か人として感じてきたものが否定される恐怖だ。

 だが、それよりも状況の不可解さに首を傾げざるをえなかった。これだけの数のシオンを、一体何のために用意したのか。全部中古であるのならば、かなり前からこの養育院があったことになる。そこまで続いてきたはずの養育院に、なぜ自分だけしか残っていないのか。何かしらのサイクルが終わってしまったのか。疑問は尽きなかった。



 ふと、背後に人の気配を感じる。振り返ると、シオンが静かにたたずんでいた。



「見てしまったのですね……」

 


 その言葉に、ルドベキアはびくりとする。

 やはり見てはいけないものだっただろうか。内心冷や汗をかきつつも、抱えた疑問を投げかけた。



「これは……なに?」

「見ての通り、今までの『私』です。活動限界を迎えると、ここに置かれることになっています」

「……どうしてわざわざこんなところに?」



 活動限界を迎えたら迎えたで、こんな薄暗い場所に隠しておく必要性が分からない。



「それはまあ……ある種の思い出といいますか。完全に失くしてしまうのは、味気が無いでしょう」

 


 シオンは何を言っている? 言わんとしている事自体は漠然と理解できるが、底の方にもやっとするものを感じた。シオンはアンドロイド。古くなったのなら、交換すればいいだけの話。それをわざわざ残しておく理由に、思い出だなんて。一体誰の?

 押し寄せる疑問の数々を飲み込み、ルドベキアは最も重大なものを探す。



「ねえ、この養育院って、なんなの?」



 口から出た言葉は、非常にシンプルだった。それだけが訊きたいことと言っても過言ではない。ここは物語の中に出てくるような、孤児を育てたりするあの養育院とは違う。そういう予感がった。知ることが出来ない限り、未知という不気味な感触に、肌をなぞられているような気持ち悪さは抜けることがない。



「……」

 


 シオンは微笑を浮かべ、黙り込む。いつまで待っても物を言わないシオンに、ついにルドベキアは痺れを切らした。怒りが腹の奥から湧き上がる。青筋を立て、鬼のような形相で叫び散らかした。



「教えてよッ‼ どうして教えてくれないの⁉」

 


 一度怒りを吐き出してしまうと、それは留まることはなかった。

 今まで溜め込んだ鬱憤という鬱憤が、幼稚な罵詈雑言となって口をつく。



 シオンは顔色ひとつ変えずに中傷を受け入れ、その様子が徐々にルドベキアの心に虚無を落とした。感情を荒げることが、時間の無駄であることを悟ったのだ。

 


 相手は人間ではない。

 眼前に転がる無数の人の模型が、ありありとそれを証明してしまっていた。彼女は答えてはくれない。多分、そういう設定だからだ。

 うなだれるルドベキア。しばらくして、シオンは見かねたのか、「顔をあげてください」 と言った。


 

 ルドベキアは唇を噛み、きっと反抗的に睨み上げる。その瞳は涙に濡れていた。



「……すみません。ここが一体どういうものなのか、私の口からは申し上げることができません。あなたが大人になり、外に出ることができれば、自ずと分かるでしょう。それまでは我慢していただくしか……」

「……」

 


 外に出ることができれば、自ずと分かる。確信が得られただけでも、収穫だ。

 ルドベキアは、段々と熱が冷めていくのを感じた。怒り疲れたのもある。だが、それ以上に「シオンに怒っても無駄」という事実を思い出して、バカらしくなったのだ。



 そして、次に温もりを欲した。呼吸を整えるのに、気持ちを落ち着けるのに、無意識にそれを探した。シオンの方を向き、若干の抵抗を覚えながら、その目を見つめる。

 シオンはルドベキアの意思をくみ取ると、腕を広げた。あまりに寛容なシオンの態度に戸惑いつつも、結局は少女は胸に飛び込んだ。ふわりと薫る、石鹸のような匂い。静かに頭を撫でられると、不安定な心が途端に落ち着いた。



「ロボットのくせに温かいの、ムカつく」



 シオンの腕の中は、人の温もりで一杯だった。小癪にも、あえてそうなるように設計されたのかは分からない。ただ、ルドベキアにとって、そんなことは些末なことに過ぎなかった。

 温かい。それだけで十分だ。シオンを人だと思える要素が、自分との共通点が、ひとつでも多い方が嬉しい。そう思えた。

 これが機械の肌で、血の通っていないものだったら、どう思っていただろう。

 ——変わらない。憶測にすぎないが、それはそれで納得している自分がいる気がした。



(ああ……たとえ機械でも、この人は私の……)



 そう実感しかけた時、ルドベキアの頬に赤が差す。そして、恐る恐る離れた。

 恥ずかしい。自分の弱い部分を見せてしまったことが。そんなの、すでに沢山見られてきているだろうに、今日は特別羞恥心を感じた。

 時間が止まったように、その場が停止する。薄暗い部屋の中で、腹に様々な感情を抱えながら、やがてルドベキアは言の葉を紡いだ。



「……シオンも、いつかいなくなるの?」

 


 部屋に置かれた複数の人形。それと同じように、目の前のシオンもまた、息をしなくなってしまうのだろうか。



「ええ。でも、すぐに代わりが来ますよ。安心してください」



 ルドベキアは眉を寄せる。



「……ねえ、シオンって、最後に変わったの、いつ?」

「そうですね。もう二十年は前になるでしょうか」

「じゃあ、私はこのシオンが良い。これじゃなきゃ……いや」

 


 シオンの袖をぎゅっと掴む赤毛の少女。どこにも行かないでほしい。そういう強い思いの表れだった。

 アンドロイドはそれ以上口を開くことはなく、ただ慈悲深い眼で少女を見つめた。髪をそっと撫で、少女の思いの丈を柔らかに包み込む。

 


 当たり前だと思っているものは、往々にして当たり前ではない。この世界に永遠など無いのだから。生まれてからずっと一緒のシオンですら、いつかはいなくなってしまう。それは悲しいことだった。

 


 自分は変わらなければならない。なんとなく、このままじゃいけないような衝動に駆られた。いつまでもシオンに甘えていては、ダメだ。大人になりたいとか、成長したいとか、そんな殊勝な心構えではない。ただ打算的に、自分が困るだけであるからそう思った節がある。むしろ、大人などにはなりたくない――そういう意思さえあった。

 それは返しのついた針のように、ルドベキアの胸に違和感を残す。大人という存在が気になる気持ちに、いつまでもその返しが引っかかり続けた。



***



 ルドベキアは変わった。

 掃除に洗濯、料理など、あれだけ嫌がっていた家事を率先してやるようになった。そして、シオンの言いつけを素直に聞くようにもなった。全てはシオンがいなくなった時に備えるため。その一心で、少女は日々苦手なものに取り組んだ。


 

 最初は思うようにいかなかった。洗剤の分量を間違えてしまったり、黒焦げのダークマターを料理してしまったり。何度も何度も嫌になった。だが、めげずにやっていくと、これはこれで楽しいものだと気づいた。暇を持て余していた頃より、はるかに充実している。何より、隣でシオンが笑っていることが、幸せで仕方が無かった。



 幸せとは、盲目だ。

 シオンはある日から、声がうまく出てこないタイミングが増えていった。しだいに体も軋むようになり、物覚えも悪くなっていく。それは微妙な変化で、ルドベキアが気がつくことはなかった。だが、確実な変化だ。シオンは一人、終焉が近いことを、笑顔の裏で悟っていた。



 それは突然のことだった。

 ルドベキアはいつものように目を覚ますと、顔を洗って、シオンの手伝いに向かう。だが、既にその姿はどこにも無かった。探せど、探せど、見つかることはない。その代わり、黒い扉が半開きになっていた。



 自分は大人になったのだ。ルドベキアはここでようやく現状を理解した。いつかはこうなるだろうと予測していた。だから、驚きはなかった。だが一方で、漠然とした寂寥感と達成感が、じわりと胸に広がる。

 本棚の裏の隠し扉。あそこでシオンは眠っている。確かめたくはあったが、結局足は動かなかった。ぽつりと「私はこんなお別れ、望んでいなかったよ」とだけ呟き、黒い扉の前に立つ。

 

 

 不思議と、涙は出なかった。

 泣きたい気持ちはあれど、耐えることができた。できてしまった。そのことに自身の成長と、ある種の不甲斐なさを覚える。ここで泣かなければ、これから先、自分は一体いつ泣くというのだろう。それで本当にいいのだろうか。



 答えは分からない。けれど、進むしかない。


 ルドベキアはふっと微笑し、扉を開けた。

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ルドベキア 朝比奈 志門 @shin_sorakawa

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