心臓がドキリとしました『百合ぽい』

赤木入伽

心臓がドキリとしました

「森さん! 大丈夫ですから、気をしっかり持ってください!」


 お医者さんはそう言いますが、森サヤカはとても重い病気であり、心臓が弱りきっていました。


 もう、手足は動かせません。

 もう、どんな薬も効きません。

 意識を保つのもやっとなのです。

 なにやら幻覚で、窓の外に人が浮いているようにも見えてしまいます。


 おそらく、あと一分もあれば、終わりです。


 十八歳という、あまりに短い人生ではありましたが、これも運命です。

 病院のベッドに横たわるサヤカは、もう諦めていました。


 自分は死ぬのだ――と。


 ただ、そんな若さで人生を終えるという劇的な最後を迎えようと言うのに、サヤカの周りにいるのは、お医者さんと看護師さんばかりでした。


 家族も友達もいませんし、お見舞いのお花もありません。

 もちろん、寒い季節で、夜遅い時間帯ではあったのですが、サヤカの容態が急変してから既に三時間ほど経っていました。

 病院からの連絡を受ければ、軽い仮眠をとったって、問題なくサヤカの最後に立ち会うことは可能です。


 しかし、誰もいません。


 まあ、それもそのはずです。

 サヤカは母子家庭でありますが、母とは著しいほど険悪で、病院の入院費も祖父母が出してくれている始末です。(ちなみに祖父母は遠方に住んでいます)

 また、サヤカは友達と言える友達がいません。

 学校でも常に一匹狼、一人ぼっち、天涯孤独。

 まともにクラスメイトと話した回数だって、片手で数えられます。


 だからでしょうか。

 サヤカは、自分が死ぬというのに、さほどの恐怖心もなく、素直に受け入れていたのです。

 いいえ。いっそ、やっと死ねる、という喜びすらその胸の奥にはありました。


 ただ、


 ちょっとした心残りがあるとすれば、思いを伝えられなかったことです。


 いえ、恋愛ごとじゃありません。

 謝罪の話です。

 それも、幼稚園の頃の話。

 幼稚園の頃にしてしまった、ちょっとした悪いことの話。


 ――マキちゃん。


 その頃のサヤカは普通の子供であり、普通に明るく、普通に元気で、普通に友達がいました。

 中でも一番の仲良しだったのは“マキちゃん”という女の子です。

 サヤカは、“マキちゃん”といつも一緒で、いつもその後を追いかけていました。

 体が小さかったサヤカに比べて、“マキちゃん”は大きかったので、ちょっとしたお姉さんのような存在だったのです。

 だから、“マキちゃん”は、時折、サヤカにおもちゃを貸してくれました。


 例えば、可愛らしいクマのぬいぐるみ。


 それは、とてもとても、本当に可愛らしく、サヤカはそのクマを撫でたり、抱きしめたり、掴んだり、引っ張ったり、潰したり、殴ったりしました。

 そして、案の定、です。

 クマのぬいぐるみは、腕が千切れて、中の綿がはみ出てしまったのです。


 当然、サヤカは慌てました。

 大変なことをしてしまったと思いました。

 謝らなければいけないと思いました。

 怒られるかもしれないと思いました。

 嫌われるかもしれないと思いました。

 殴られるかもしれないと思いました。


 だから、嘘をつきました。


「最初から破れていたよ」


 子供ならではの、すぐにバレる嘘です。

 ですが、サヤカが堂々と言うと、“マキちゃん”は、


「そっか。じゃあ、仕方ないね」


 と、笑いました。


 そして“マキちゃん”は、一人で、笑顔のまま、テープやら紐でクマの腕を治そうとしました。


「お医者さんごっこだよ」


 “マキちゃん”の笑顔は、とうとう最後まで消えませんでした。


 しかし、その時サヤカは謝るべきでした。

 いえ、例えその時でなくとも、ずっと後になったとしても、いつかは謝るべきでした。

 なにせサヤカと“マキちゃん”は、小学校卒業までずっと同じクラスだったのです。

 いっそサヤカが開き直って、「もう時効だけど、あの時はゴメンね」と軽い調子であっても、謝るべきだったのです。

 その態度や方法がいかなるものであっても。


 ですが、サヤカは謝りませんでした。


 それどころか、サヤカは“マキちゃん”との会話を避けるようになりました。

 しかも、一番仲良しだった“マキちゃん”と距離を取ってしまうと、他の友達ともどのように接すれば良いか分からなくなってしまい、気づけばサヤカは、誰とも話さなくなりました。


 誰とも話さなければ、自然と友達はいなくなりました。

 親とも会話しなくなりました。

 すると親同士の会話もなくなりました。

 気づけば父は家を出ていきました。

 母は荒れましたが、母は新しい男と話すようになりました。


 そして、サヤカと話す者は誰もいなくなりました。


 そして、サヤカが死にそうだと言うのに、看取る人は誰もいません。


 あぁ、いえ、お医者さんと看護師さんを含めれば、話は別ですが。

 もっとも、お医者さんはギャグが寒い中年おじさんで、看護師さんは実習生も混じって頼りなさそうな面々ばかり。

 まあ、この人達は、仕事とは言え、善意でサヤカの苦しみを和らげようと必死になってくれたのですから、若くして死ぬ人としては、サヤカは幸せな方かもしれません。


 しかし、それでも、もしサヤカが“マキちゃん”に一言謝罪していれば、こんな最後ではなかったのかもしれません。


 もっとも――後悔先に立たず。


 そうこうしているうちに、既に一分が経ちました。

 一分というのは、チケット販売の順番待ちをするには長く感じますが、人生の最後としては短いものです。


 あっという間に、眠るように、サヤカは死にました。


 そして、サヤカはそんな風に死んだ自分を見下ろしていました。


「え?」


 思わずサヤカは声をあげますが、お医者さんも看護師さんも反応しません。

 お医者さんは、何やら機材を持ってこいと看護師さんに指示を出し、残った看護師さんは、死んだサヤカに声をかけ続けています。


 そう。

 サヤカはここにいるのに、そこにもサヤカがいたのです。

 ここにいるのは、ベッドの脇に立つサヤカ。

 そこにいるのは、ベッドで横たわって死んでいるサヤカ。


 サヤカは、試しにベッドに手を触れようとしましたが、その手は空気を掴むように、ベッドを通り抜けてしまいました。

 お医者さんや看護師さんの目の前で手を振ってみても、誰も何の反応もしません。


 サヤカは驚きました。

 しかし、なんのことはありません。


 要するにサヤカは、幽霊になったのです。


 それからサヤカは、一分あまりいろいろ試しましたが、何にも触れないし、誰も反応しませんし、サヤカが幽霊であることは確かでした。


「マジで?」と彼女は一人呟きました。

 誰にも聞かれることもない呟きでしたが、


「マジですよ」


 突如として、背後から声が聞こえてきました。

 ただ、彼女の背後と言えば、そこには窓ガラスがあるだけで、その奥は地上五階の高さの虚空でした。


 サヤカは再び驚いて振り向きました。

 すると、そこには――窓の奥の空中には、サヤカと同い年くらいの女の子がいました。

 翼も、飛行機もなく、まして釣り糸やワイヤーもなく、その女の子は、宙に浮いていました。

 白のワンピースを着て、とても綺麗な女の子でした。


 女の子は微笑むと、ふわりと風に流れるように病室に入ってきました。

 窓も、窓台も、窓台にある時計も、すべて通り抜けて。


「て……天使?」


 サヤカはまた呟きましたが、女の子は「いえいえ、ただの浮遊霊です」と否定しました。


 曰く、女の子はボランティアをしているのだとか。

 死んだばかりの人は、パニックになってポルターガイストを引き起こしたり、生きている人を呪ったりしてしまう恐れもあるので、それを防ぐためにもボランティアが初心者幽霊に対し、幽霊の手ほどきをしてあげているのだとか。


 とは言え、そんなことをいっぺんに言われてもサヤカは混乱しましたが。

 しかも二人の隣では、未だお医者さんと看護師さんが、サヤカの心肺蘇生に力を発揮してくれているところです。

 だと言うのに女の子は、「みなさん同じような反応されます」と呑気なもので、さらに話を続けました。


 呑気に。


 ただ、しかし、


「で、まあ、早速なんですが――、サヤカさん、とおっしゃいましたね。サヤカさんは、未練とかやり残したことはありますか?」


「え?」


 その質問は、お医者さんの検診のように、特別な気を使ったものでなく、半ば日常会話みたいな口調でされました。


 ですが、サヤカの脳裏には、“マキちゃん”の顔がよぎり、心臓がドキリとしました。

 心臓は、もう止まっているはずなのに。


 曰く、未練があると、それこそ怨霊になってしまう幽霊がいるんだとか。

 それを防ぐためにも、ボランティアがいるんだとか。


 しかし、


「別に、ないです」


 サヤカは言いました。


 言った瞬間、言おうと思った瞬間から、心臓が異常に苦しくなりました。

 思わず手を胸に当て、その場にうずくまります。

 こんなに苦しくなったのは、生まれてから死ぬまで経験ありませんでした。


「大丈夫ですか?」


 女の子が尋ねます。

 しかしサヤカは「だ、大丈夫です……。未練も、ありません……」と答えました。

 しかし女の子は、


「ダウト。あなたは未練たっぷりですね」


 と返答しました。


「あ、あなたに何が分かるんですか……」


 サヤカは女の子を睨み据えました。

 けれど女の子はそんなもの受け流し、にこやかに語ります。


「分かりますよ。そういう意地を張る方こそ、未練作っちゃうものですし。私もそうでしたし」


 女の子は語りました。

 実は女の子が死んだのは一年前と、とても最近のことでした。

 死因は交通事故。

 事故現場は車通りの激しい危険な道でしたが、普段であれば女の子も足を運ばないような道でもありました。

 ではなぜ女の子がそこへ行ったかと言えば、もともと行く先だった道に、元友達がいたから。

 あることがきっかけで不仲になってしまったので、女の子はその子と話したくないと考え、事故現場へ足を向けてしまったのです。

 ただ、そんな妙な意地を張ったために、事故に遭ってしまいました。

 もちろん、意地と事故にちゃんとした因果関係なんてありません。

 しかし、それでも、


「そんなんだから、成仏しきれず、浮遊霊しているのも事実なわけです」


「……」


「だから、サヤカさんは、意地なんて張らずに、しっかり未練を解消した方がいいですよ」


 女の子は、「ね?」と優しい笑顔をつくりました。


 けれど、そうは言っても、もう既に死んでしまったサヤカが、“マキちゃん”に謝る術はありません。

 だから、心臓がまた強く痛みます。


「あぁ、そこなんですけどね――サヤカさん、もしかして、さっきから心臓が痛かったりします?」


 女の子の突然の指摘に、サヤカは驚き、返事ができませんでした。

 しかし女の子にはそれが肯定と取れたらしく、


「それならオーケーです」


 これまた良い笑顔を作りました。


「意地っ張りな幽霊さんに多い話なんですけどね――、サヤカさんは、魂が頑張るのをやめちゃったせいで、肉体の機能が停止してしまっただけなんです。つまり、サヤカさんが生きたいと思えば――」


 ――生き返ることができる。


 そう女の子は言いました。

 そして、生き返れる特徴のある人というのが、幽霊なのに、心臓が痛む人。

 まさに今のサヤカでした。


 しかし、そう言われたサヤカは戸惑います。

 未練がいくらあっても、謝罪の機会が出来たとしても、今更謝って、何の意味があるのか。


 けれど女の子は、きっぱりと言います。


「意味なんて知りません。結局は、あなたの気持ちが問題なんですよ。だから生き返りなさい!」


 その力強い命令形の言葉に、サヤカの心臓はまたドキリとしました。

 が、痛みはありませんでした。


「気持ちは決まりましたね? それじゃあ、生きたいと強く思ってください。そうすれば、後は自動的に魂が肉体に戻ります」


 女の子の言葉に、サヤカは頷きますが、最後に、彼女の名前を尋ねました。


「あぁ、そういえば自己紹介がまだでしたね。死因はさっき言った通り交通事故で、去年死んだばっかりの享年十七歳。名前は高橋マキです。これでお別れですけど、次に死ぬときは、よろしくお願いしますね」


「マキ?」


 同い年のマキ。


 そう聞くと、心臓がまたまたドキリとして、目が覚めました。


 サヤカは天井を見つめており、急に体が重くなった感じがしました。

 そのくせ、辺りはやたらと騒々しいものでした。

 眼球を左に向ければ、そこではお医者さんが、心底安堵したような顔をしていました。

 眼球を右に向ければ、そこでは看護師さんが、泣きそうな顔をしていました。


 看護師さんの向こう側には、鮮やかな天気の良い空を見せる窓しかありませんでした。


 窓台にある時計を見れば、サヤカが死ぬまで一分とか言っていたときから、四分ほど経ったころです。


 さてはて、先ほどまでのことは夢や幻覚だったのか。

 確かめるには、もう一度死ぬしかありません。


 ただ、少なくともサヤカはあることをせねば、今度こそ死んでも死にきれません。

 サヤカの心の内には、もはや“マキちゃん”のことしかありませんでした。


 とはいえ、さしあたっては、懸命に自分の蘇生を頑張ってくれたお医者さんと看護師さんにお礼を言わねばならないでしょう。

 今までは名前もろくに覚えていなかったのですが、右側の看護師さんなんかは、サヤカのために涙を流してくれているのです。

 どうやらこの人は看護実習生なので、こういう現場も初めてなのでしょう。

 初めてなのに、頑張ってくれた。

 であれば、とびきりのお礼を言わねばなりません。


 そのために、まずサヤカは、看護師さんの名前を知ろうと、そのネームプレート――クマのシールが貼られている――に目をやりました。


 ネームプレートには、“牧サヤカ”とありました。


 サヤカの心臓は、もう一度ドキリとしましたが、それも全然痛いものではありませんでした。

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