第65話 キャンディの捕球 その3

「じゃあ、三球目。魔球だね」


 殿下はボールを握った右手を、まっすぐにキャンディのほうに伸ばしてそう言った。

 ぺたりと座り込んでいたキャンディは、はっとしたように立ち上がると、一度腰を伸ばしてから、またキャッチャーズボックス内で構える。


「いいかな?」


 殿下のその言葉に、キャンディはこくりとうなずく。


「では」


 ついに三球目。


 殿下の言動に気疲れしていた選手たちも、そして私も、居住まいを正し少し乗り出すようにして、二人を見つめる。


 グラウンドを静寂が包む。

 ザッ、と殿下が足でマウンドを均す音さえも聞こえる静けさ。

 そして、殿下が構える。片足を上げる。今までと違い、軽く踏み込むように体重を移動させ、今までに比べればいくぶんか勢いのない腕の振りで、一球を投じる。


 やはり、ただの遅い球にしか見えなかった。

 あの雨の日、ブルペンで魔球を投じた殿下は、「変化しなかった」と仰っていた。つまり、失投もありえる球なのだ。

 もしかしたら今も、変化していないのではないか。

 だとしたら、キャンディなら捕れるはず。


 私たちは固唾を飲んで、キャンディの捕球を見守る。

 殿下の球は吸い込まれるようにキャンディのグラブに向かっていった。


「捕っ……!」


 思わずそう口から漏れ出て腰を浮かせる。

 しかし。

 捕球できたかと思った球は、キャンディの手首のほうに当たるとそのまま下に落ち、コロコロと転がっていった。


「え……」


 しん、と静まり返る、グラウンド。

 誰も動くことができなくて。転がっていって、そして止まった球を誰もが見つめていた。

 キャンディもそうだ。じっと白い球を見つめているのが窺えた。


「惜しかったね」


 マウンド上で、殿下が言った。

 その言葉で時間が動き出す。


 はっとしたようにキャンディが顔を起こし、そして立ち上がると、ぺこりと頭を下げた。

 キャンディはホームベースを後に歩き出し、マスクを脱いだ。ヘルメットを外すと控えていたメイドに手渡している。

 彼女の赤い髪が、風に、揺れていた。


          ◇


 令嬢たちはキャンディの捕球を見て、ざわざわとざわめいていた。


「どういうことかしら」

「一番簡単そうに見えるのに」

「だって、ジュディさまも捕れなかったのよ」

「魔球って、いったい……」


 捕球の難しさを身をもって知った彼女たちは、三球目の謎が気になるようだった。

 速ければいいというものでもない、どうやら奥深いものが野球にはあるようだ、と感じているのではないか。


 他ならぬ私が、それを今、ひしひしと感じている。

 どうしてあの三球目が、ジュディさまもキャンディも捕れなかったのか。間違いなく、彼女たちはこの中では実力者であるのに。


 私に本当に捕れるのだろうか。

 少し身体の芯から冷えてきたような気がして、私は自分の二の腕をさする。


「でもこうなると、ジュディさまとキャンディさまの一騎打ちかしら」


 ひそひそと令嬢たちが話し合っている。


「まだあと三人おりますわよ」

「一番練習した人が残っておりますしね」

「けれど、こう言ってはなんですけれど、少しにぶくていらっしゃるというか」

「あまり脅威には感じないんですのよね」


 くすくす、と笑う声が聞こえる。

 私はそちらにぱっと顔を向けた。その動きを予測していなかったであろう令嬢たちは、どうやら怯んだようだった。


「な、なんですの?」


 私は彼女たちに向かって、口元を笑みの形にする。

 彼女たちにそう思われるのは仕方ない。だってやっぱり私はにぶいんだもの。

 けれどがんばったの。恥じることなんて何一つない。


「本当にわたくし、にぶくて、どんくさくて、のろまで」


 私は頬に手を当てて、ほう、と息を吐く。


「い、いえ、別にわたくしたちはそこまでは……」


 令嬢たちは慌てたように手を振っている。


「なのでがんばるしかなかったのですわ。よろしければ、成果を見ていらして?」


 にっこりと笑うと、彼女たちは気圧されたように、「え、ええ」とうなずいた。


 私は前を向く。背筋を伸ばす。

 どこまでやれるかはわからない。

 けれど全力を尽くしてやろう、と思う。


 せめてジュディさまとキャンディの一騎打ちではなく、そこに私が食い込めるように。


          ◇


「あーん、もう、捕れそうだったのにー」


 そんなことを声に出しながら、キャンディが席に戻ってきた。


「悔しいなあ」


 そう言って、私の隣にどさっと腰掛ける。

 けれど言うほど悔しそうには見えなかった。


「……惜しかったわね」


 二球目まで捕れたのに。

 しかも、本気を出した殿下の球を。


「殿下の球、速かったわ」

「やっぱりそうよね!」


 ガバッと身体を起こしてキャンディが言う。


「前に見たときより速いと思ったのよ。驚いちゃった!」

「あれ、全力っすよ」


 キャンディの隣にいたジミーがそう補足する。


「嘘っ。殿下、ひどーい」


 恨み言をそう口にすると、キャンディは大仰にうなだれてみせた。


「でも、それを捕ったんだもの、やっぱりキャンディはすごいわ」


 私がそう言うと、彼女はちらりとこちらを見て、小さな声で言う。


「そう? すごい?」

「すごいわ。二球目なんて、あんな反応できる人なんていないもの」


 私だったら絶対に無理だ。弾いた球を目で追うしかできなかっただろう。


「褒めて褒めて。もっと褒めて。わたくし、褒められると伸びる子なの」


 キャンディは胸を張ってそこに手を当て、そんな軽口を言う。

 それに思わず、くすっと笑いが洩れた。


「キャンディはすごいわ。最初からずっと、すごかったもの」

「でも、三球目は捕れなかったわ」


 そう言って、軽く肩をすくめる。


「それは……残念だったけれど」


 なんて言えばいいのだろう。

 今は明るく振る舞っているけれど、やっぱりショックだったのではないだろうか。

 本当は心の中では落ち込んでいるのではないだろうか。


「でも、面白かった! 後悔はないわ」


 そう言ってキャンディは微笑んだ。

 なんだかやけにすっきりしているような気がする。

 空元気なのだろうか。

 まだ終わりと決まったわけではないのに。


「まだわからないわ」

「え?」

「このあと誰も三球目を捕れなければ、復活戦になるもの」


 私の言葉に、キャンディは突如、不機嫌そうに眉をひそめた。

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