第58話 ジュディさまの構え
わーわーとホームベース付近が人であふれる。
もうこれは収拾がつかないのではないのか、と思った頃。
「静まれ!」
凛とした声がグラウンド内に響き、全員がぴたりと動きを止めた。
声を出したのは、マウンド上にいたウォルター殿下だった。
「あー……、申し訳ないけれど、ひとまず、落ち着いていただけるかな」
ため息混じりのその言葉に皆、顔を見合わせて、そして大人しく従った。
「ホワイト、これは試合ではないのだから、そこまで厳格でなくても構わないよ。あと、退場もさせる必要はない」
ホワイトさんに向かって、殿下は穏やかな声音でそう言った。なにやら不服げだったホワイトさんも、渋々ながら一礼して、「かしこまりました」と応える。
「それから、ご令嬢方」
そう言って、女性たちのほうに振り返る。
「もし、どうしても怖い、というのなら、残念だけれど辞退しても構わないよ?」
にっこりと笑って言うその言葉に、令嬢たちは息を呑んだ。
「辞退したことを家の者に知られたくない、というのなら、このことは黙っておくし、この場にいる全員に今日のことを口にしないようにも命じよう」
殿下は以前、『中には、王太子妃になどなりたくないけれど、親に言われて仕方なく来た方もいるだろう』と仰っていた。それを考慮した提案なのだろう。
「辞退するのならグラウンドからは出てもらうけれど。どうする?」
女性たちはしばらくちらちらとお互いを窺っていたけれど、5番の令嬢が、意を決したように言った。
「いえ、殿下さえよろしければ、このまま続けさせてくださいませ」
「いいよ、歓迎する」
その穏やかな声音に、彼女はほっと息をついた。
殿下は残った令嬢たちのほうにも視線を移す。
「辞退するなら、エディに言ってね。よく考えて」
そう言われて、ちら、とエディさまのほうを見た令嬢もいたが、けれども皆、首を横に振った。
「そう。だったら選手たちは席までご令嬢方をエスコートして差し上げて。予選のときにも言ったけれど、これは野球普及も兼ねた集いだしね。怖い、というままで帰っていただくのは忍びないから、アドバイスなりなんなり、して欲しいな」
「かしこまりました」
選手たちはそう一礼すると、それぞれ令嬢につき、彼女たちを席までうながした。
そうして徐々に場は収束していった。
「では、続けよう」
殿下がそう言うと、5番の令嬢は少し考えるように目を伏せると、思い切ったようにキャッチャーズボックス内にしゃがんだ。膝は揃えて地面につけているけれど、彼女にしては勇気を振り絞ったものだろう。
「いくよ、そんなに速くは投げないから、ボールはよく見てね」
「は、はい」
令嬢がそう返事をするのを聞くと、殿下はふわりとボールを投げた。
彼女はボールの軌道を追うようにグラブを動かす。
「ああー……」
けれど、ボールは彼女のグラブに当たって、そして落ちてしまった。
「捕れませんでしたわ……」
転がっていくボールを、彼女は目で追っている。
「惜しかったね」
にっこりと微笑んでそう言う殿下に顔を上げ、彼女は小さく笑った。
「仕方ありませんわ」
そう言うと彼女は立ち上がり、一礼するとホームベースを去って行く。
今度は次に控えていた6番の令嬢がエディさまにうながされ、そちらに歩いていく。
そして。
ゆったりと腰掛けていたジュディさまが、すく、と立ち上がった。
「わたくしも準備しなければ」
そうつぶやくように言って、手に持っていたグラブをぎゅっと握った。
「では、参ります」
◇
6番の令嬢も球を弾いてしまい、あっという間に終わってしまった。
彼女と入れ替わりに、防具を身に着けたジュディさまがそちらに向かう。
キャッチャーズボックスの真横に立つと、少しの間、ホワイトさん、バッターとして立つ選手、そしてウォルター殿下に視線を巡らせる。
「ではよろしくお願いいたします」
ジュディさまは、いと優雅に一礼した。
けれどしゃがみ込む前に、声を張った。
「ウォルター殿下」
彼女の呼び掛けに、殿下は小さく首を傾げた。
「なに?」
「わたくしには、もう少し速く投げていただけませんこと? あそこまで遅くては、わたくしにとっては逆に捕りにくくて仕方ありませんわ」
その言葉に、令嬢たちの中からざわめきが起きる。
殿下は口の端を上げ、答えた。
「いいよ、もちろん」
「ではそれでお願いいたします」
ジュディさまは殿下の了承を聞くと、しゃがみ込んだ。
今までの令嬢たちとは、明らかに違う、構え。
足を開き、グラブを前に出し、右手を自分の足首に置いている。
とても綺麗な姿勢だった。
「へえ」
そのフォームを見ると、殿下は満足げにうなずく。
「いいね、投げやすい。では、きっちり投げさせてもらおう」
「どうぞ、構いませんわ」
きっぱりと言い切ったジュディさまの言葉に、殿下は嬉しそうに笑った。
そうこなくては、と思っているようにも見えた。
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