第54話 ストライクゾーン

 令嬢たちは殿下のその言葉に、姿勢を正した。

 もちろん私もだ。

 殿下は令嬢たちの様子を見て一つうなずくと、口を開く。


「予選会のときにも言ったけれど、投げる球は三球。ストレート、スプリット、それから魔球」


 その言葉に、私はうなずく。

 周りの令嬢たちは、予選会のときに聞いていたはずなのに、なぜか不安げに曖昧にうなずいている。


「この順番通りに投げるから、三球すべて捕れれば合格。捕れなければ不合格。もし一球目が捕れなければ、その時点で試験は終了。ここまで、いいだろうか?」


 うなずくしかない。それは予選会のときに説明済みだ。


「予選会のときには捕れなければお帰りいただくと言ったけれど、他の令嬢の試験を見たいと言うならば、残ってもらっても構わない。君たちの中には公平性に疑問を抱いている方がいるようだから、その目で見たらいいと思うよ」


 にっこりと穏やかな笑みを浮かべてはいるけれど、言葉尻にキツさが伴う。

 納得しろ、と言外に言っている。


「先日、投げる球を三球見せたけれど、いつもいつも同じ球ではないんだ。なるべく同じように投げるつもりでも、投げ損じがないとも言い切れないものだからね」


 物憂げにため息をついている。

 それは私は知っている。あの雨の日、魔球を投げた殿下は、「失投だ」と言ったのだ。


「けれど多少の失投は、さほど影響はないと思う。問題は、ストライクゾーンを外したときだね」

「スト……え?」


 殿下の口からいきなり飛び出てきた言葉に、ほとんどの令嬢が首を傾げた。

 エディさまが一歩前に進み出て、こほん、と咳払いをすると殿下の言葉を補足する。


「ストライクゾーンとは、投げられた球を打者が打てるであろう範囲のことを示します。そして同時に、捕手が無理なく捕れるであろう範囲です」


 エディさまは本塁のあたりを指差した。


「細かく言えば、ホームベース……打者が打つところにある五角形の塁のことですが、この上の空間に存在します。下は打者の膝下。上は打者の胸辺り」


 ここまで説明したところで令嬢たちの表情を見て、彼女らが理解していないのがわかったのだろう。

 エディさまはしゃがむと、地面に指で五角形を描いた。

 そして立ち上がると、腕を伸ばしてちょいちょいと指先を動かした。

 腕の先には兄がいた。


「ラルフ。構えて」

「えっ、僕?」


 兄は自分を指差して、驚いたようにそう言う。


「そう」


 エディさまがうなずくと、兄は慌てたように前に駆けてきた。

 そして、エディさまの描いた五角形の横に、少し腰を落として立った。


「この五角形の形のまま、上に伸びた空間。上は彼……打者の胸辺り。下は打者の膝下まで。この空中に浮かぶ五角柱、これがストライクゾーンです」


 エディさまの身振り手振りの説明で、どうやらなんとなくはわかったらしい令嬢たちは、何度もうなずいている。


「殿下の球がこの空間を通過すると、ストライクになります」


 兄はその説明を聞きながら、落としていた腰に手を当てて、伸ばしている。

 ウォルター殿下はエディさまのその説明が終わると、令嬢たちのほうに向かって言った。


「私が投げた球がストライクゾーンを通った場合のみ、有効にしよう。通らなかったら捕れなくても構わない。ストライクゾーンを通過するまで投げ続けよう。けれど、ストライクゾーンを通ったら、必ず捕球してね。できなかったら不合格だから」


 そこまで言ってなにかに気付いたように殿下は斜め上を見て、そしてエディさまに振り返って言った。


「ああ、でもボール球を捕ったらそれは捕球した、ということにしようか」

「そうですね」


 エディさまはウォルター殿下の言葉にうなずいている。

 それを見て殿下は口の端を上げた。殿下が本当にエディさまを信頼しているのが窺える。


 殿下はまた令嬢たちのほうに顔を向けると、続けた。


「一応、審判とバッターは置くね。私もそのほうがストライクに入れやすい。ボールだったら捕れなくてもいいよ。ただ、なるべく後ろに逸らさないようにね」


 殿下の言葉に、令嬢たちはしばらく固まった。


「えっ?」

「ボールを捕るのに……ボールは捕れなくても……?」


 首をひねっている令嬢がたくさんいる。

 それでなくともここまでの説明も理解しきれていないのに、ここにきて訳がわからなくなってきた、と令嬢たちの顔が言っている。


「うん?」


 殿下が首を傾げると、エディさまがため息混じりに令嬢たちに言った。


「ええーと、ストライクに対して、ストライクゾーンを通らなかったものをボールと呼んで判定します。この場合、用具としてのボールとは別物です」

「ああ、そうか、そうだね。同じ言葉だからね」


 今気が付いた、というような表情をして、殿下がうなずいている。

 エディさまはそれを見てから、令嬢たちのほうに視線を移した。


「今、混乱させてしまいましたが、心配ありません。ストライクに対してのボール、は今、覚える必要もありません。ストライクすら覚えなくとも構いません」


 エディさまの言葉に、令嬢たちだけでなく、選手の人たちも彼に注目した。

 しん、となったところで、エディさまは声を張る。


「ウォルター殿下は、ストライクしか投げません。来たボールは必ず捕球してください。それで合格です」


 堂々としていて、迷いのない言葉だった。

 殿下は隣で肩を落とす。


「ずいぶんなプレッシャーだなあ」

「全力ならともかく、加減した投球でボール球を投げるような人ではないでしょう?」


 そう言って、エディさまは口の端を上げて、にやりと笑った。



*****


ストライクゾーン・・・正確には、空間に浮かぶ五角柱、上は「ズボンの上部と肩の上部の中間」、下は「膝頭の下」です。


これを審判さんが目視で判定します。審判さんがルールブック。

「今の入ってただろーが!」とか「さっきそれストライク取っただろー!」とか言ってはいけません。

審判さんがストライクと言ったらストライクなのです。

まあ普通に、空間に浮かぶゾーンを通ったとか通らないとか判定するのは難しい。審判さんには高度な技術が要求される。あんま責めないであげてよお。

ちなみに、「ど真ん中は気持ちが入ってないからボールだ!」と判定した審判さんも昔はいたそうです……。そりゃノムさんも怒る。


ストライクに入れやすい・・・投手が打席に立つ場合にたまにあるのですが、投手はベンチから「何もしないで立ってなさい」指令がでることがあり、そういうときには、万が一にも球に当たらないようにバッターボックスの一番後ろギリギリに構えています。

このとき、打つ気もないのにフォアボールになって塁に出なくてはいけなくなったりします。なぜかというと、いつもの位置に打者がいないため、投げる側としてはゾーンを測りにくくなり、ストライクを入れにくいのです。

早くアウトになって次の回に備えてキャッチボールしたかったのにねえ。

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