第55話 応援

 ウォルター殿下は微笑みをエディさまに返すと、またこちらに振り向いた。


「では、これから始めるけれど、その前に注意事項」


 その言葉に、令嬢たちの背が自然と伸びる。


「とにかく怪我をしないことを最優先。でもどれだけ注意しても、痣の一つはできるかもしれない。それくらいは了承してね」


 にこにことしながら、恐ろしいことを発言する。

 けれど令嬢たちは異を唱えることはしなかった。ただ、殿下の言葉にうなずくだけだ。


「だから、防具はきちんと装着してね。メイドがいるから、彼女たちに手伝ってもらって」


 言われてそこにいたメイドが二人、一歩、前に進み出る。

 私たちがこの二週間練習するときにも手伝ってくれたメイドたちだ。彼女たちならそつなくこなすだろう。


 エディさまが殿下の話を引き継ぐ。


「さきほど引いていただいたくじの順番に捕球してもらいます。次の人は、前の人が捕球している間に、防具をつけて準備をしておいてください」


 そうして注意事項を並べられていると、本当に始まるんだ、という実感が湧いてくる。

 私は胸に手を当てて、ふーっと息を吐いた。

 緊張する。身体が震えてくる。

 落ち着かなくちゃ。


 そうして自分自身に言い聞かせていると、隣にいたキャンディが密やかに言った。


「大丈夫よ」


 私はその声に顔を上げる。キャンディはまっすぐに前を見たまま、つぶやくように言う。


「私たちなら、大丈夫」


 それは、私に向けて言ったものなのか。それとも自分自身に向けて言ったものなのか。

 いや、きっと、どちらもだ。


「ええ。私たちなら、大丈夫」


 私の言葉に、キャンディは小さく笑う。


 大丈夫。

 だってあんなに練習したもの。ここにいる誰にも負けないくらいに。


 そうしているうち、殿下がベンチ裏に向かって手招きを始めた。


「ああ、こっちこっち」


 呼ばれた誰かは、こちらに駆けてきた。

 黒いシャツに灰色のスラックスを履いている男の人だ。誰だろう。

 殿下はその人を手のひらで指しながら、言った。


「さきほどストライクゾーンの話をしたけれど、この方がこの国で一番ストライクゾーンの判定が正確な人だよ。彼が今日の球審を務める」

「えー、球審のホワイトです」


 その人はそう名乗ると、ぺこりと頭を下げた。


「本当は彼に、ストライクかどうか判定してもらうつもりだったんだけれど、どうやら私はすべてストライクに投げるようだから」


 苦笑しながら殿下はそう言った。そしてホワイトさんのほうに顔を向ける。


「だから、君には捕球したかどうかの判定をお願いしよう。捕球したらストライクコールをしてもらえるかな」


 殿下の言葉に、ホワイトさんはうなずいた。


「かしこまりました」

「よろしくね」


 言われたホワイトさんは一礼して、そしてホームベースのほうに歩いていく。


「殿下あ」


 そのとき、ふいに選手たちの間から声が上げられた。

 ジミーの声だった。


「なに?」


 殿下がそちらのほうに振り向く。

 ジミーは並べられた椅子を指差しながら、訊いた。


「俺たち、ここで見ていてもいいっすか? 少なからず関わったんだから、見届けたいっす」

「いいよ。そう言うと思って、椅子を多めに用意したから」


 殿下はあっさりと軽い調子でそう答えた。


「あざっす」


 そうか。そのために、三十人の予選通過者に対して、それ以上の椅子が用意されていたのか。


「殿下、それでは」


 また声が上がる。今度は兄の声だった。


「特定の誰かに向けての応援を許可していただけますか?」


 その言葉に私は振り返る。兄はちらりとこちらを見てから微笑んだ。

 もちろん私は、兄に応援してもらえば心強い。

 でもそれは許されることなのだろうか。


「いいよ」


 けれどそれにも殿下はあっさりと答える。


「元来、応援とはそうしたものだよ。けれど、他の令嬢に対しての野次は禁止。いいね?」

「それはもちろん」


 兄はうなずく。

 それを見て殿下は令嬢たちのほうに視線を動かした。


「そういうわけだから、選手たちも同席させるね」


 殿下は令嬢たちに軽く言ったけれど、彼女たちの中には身じろぎしている人もいる。


「え……殿方と同席ですの……?」

「近くに来なければいいんですけれど……」

「貴族でない方もおられますしね……」


 ひそひそとそんなことを言っている。


 失礼極まりないんだから、と私は少し唇を尖らせる。

 ジミーに対して、貴族でないから、と教えを請わなかったと聞いた。

 それはとても損をしたわね、と心の中で舌を出す。

 彼はとても誠実に教えてくれたし、彼でなければ不器用な自分が捕球できるまでにはならなかったかもしれない。

 彼に教わらなかったことは、彼女たちにとって大変な損害なのではないかしら。


「はい、じゃあ君たちも席に着いて」


 殿下の声で、ぞろぞろと選手たちも動き出す。

 そしてその全員が。

 私たちの周りに固まってやってきた。


「お邪魔するっす」


 ジミーがキャンディの隣に。


「僕はここでいいよね」


 兄が私の隣に。


 その他の選手たちも、すぐ近くに腰掛けた。

 集団の動きに驚いたのか、令嬢たちは見開いた目で彼らを追っている。


「えっ、ちょっと……」

「なに、これ……」


 彼女たちは、近くに来なければいい、だなんて言っていたくせに、なにやら不満げな表情をしている。


 結局、私たち二人を選手たちが取り囲む格好になってしまった。


「皆さま……」


 なんだかとても感激してしまって、声が詰まる。キャンディも同じのようだった。

 その様子を見て、殿下が小さく微笑んだのが見えた。



*****


球場での応援場所は、どのチームを応援するかによって、だいたい決まっています。

プロ野球だと、ホームチームは一塁側、ビジターチームは三塁側、が多いのですが、なんとこれが真逆の球場もあるので、チケットをお買い求めの際はよく調べてから席を選びましょう。

……大変なことになりかねないです……。

きっちりビジター専用シートが用意されている球場もあり、そこにホームのファンが入り込むとか、ダメ絶対!


ホワイトさん……だと……? と思われた方へ

この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。

ありませんったらありません。

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