第40話 雨の日

 朝起きると、なんだか辺りが薄暗かった。

 首を巡らせて窓のほうに目を向けると、カーテンの向こう側には陽が出ていないことがわかる。けれど夜の闇とは違う暗さだ。

 ベッドから半身だけを起こして、私は寝ぼけた頭で思ったことをつぶやく。


「雨……」


 ザーザーと降る雨音が聞こえる。

 のそりと起き出してベッドから立ち上がり、窓際に寄ってカーテンを開けると、雨が窓に打ち付けていて、けっこう強く降っているのがわかった。


 これでは朝のランニングは無理だ。

 兄からも、雨の日は怪我に繋がりやすいし風邪を引いてはいけないからと、走らないように言われたことがある。


 とはいえ、目が覚めてしまったものは仕方ない。

 私は欠伸を一つすると、クローゼットに向かう。

 今日はどうしたらいいんだろう。


「球場は、開放しているのかしら……」


 もしかしたら、雨は止むかもしれない。それなら念のため球場に向かって、雨の様子を窺っていたほうがいいのではないだろうか。


 本選まで、あと六日。

 一日だって無駄にはできない。


 私が起き出した気配に気付いたメイドがやってきて、朝の準備を手伝ってくれる。


「今日はいかがなさいますか? 雨ですが」

「一応、球場には行こうと思うのだけれど」

「かしこまりました」


 私は、外出用のワンピースに着替えることにした。


「キャンディさまは、どうするかしら」


 彼女の意見も聞いてみよう。もしかしたら、なにかいい案があるかもしれない。


「先ほど、起きられたようですよ」

「あら、そう」


 それなら食堂に来るだろう。朝食をとりながら相談してみよう。

 支度を終えた私は、食堂に向かう。

 キャンディさまはまだ来ていなくて、私は果物のジュースを飲みながら、のんびりと待った。

 少ししてキャンディさまが食堂に入ってくる。朝の挨拶を交わすと、彼女は私の前の席に着いた。


「雨ですわね。これではランニングは無理ですわ」


 キャンディさまはメイドがテーブルの上に置いたジュースを手に取り、一口口にしてから、そう言った。


「ええ、兄も雨の日は走らなくていいと言っておりましたから」

「そうでしょうね」


 キャンディさまは、どこか安堵したような笑みを浮かべた。

 もしかして雨の日も走るのかしら、とでも思っていたのかもしれない。

 野菜サラダを食べようとフォークに手を伸ばしたところで、私はキャンディさまに言った。


「わたくし、雨が止んだときに備えて、球場には向かおうと思いますの。どうでしょうか」

「えっ」


 私の言葉に、同じくフォークを手に取っていたキャンディさまは、顔を上げて固まってしまった。


「球場に……向かわれるの?」

「はい」

「そう……」


 キャンディさまは目を伏せ、しばらく逡巡するような仕草を見せたあと、おずおずと顔を上げて言った。


「わたくしは……今日は休もうと思います」

「えっ」

「調子悪いし、雨だし……ごめんなさい」

「いえ、謝ることではないけれど……」


 キャンディさまはここのところ、日に日に元気がなくなってきてはいた。けれど練習は毎日していたから、球場に向かうのは断っても、なにか代替案を出すかと思っていたのに。


「そうですわね、行ったところで雨が止まなければ練習はできませんし」

「ごめんなさい」

「だから、謝ることではありませんわ」


 私がそう言って微笑むと、キャンディさまは眉尻を下げつつも、口角を上げた。

 やる気が出るとか出ないとかの問題ではなく、もしかしたら本当に調子が悪いのかしら、と思う。

 私と違ってキャンディさまは人の屋敷で寝泊まりしているのだし、気疲れだってしてしまっているだろう。慣れない環境に調子を崩してもおかしくはない。


「お医者さまを呼びましょうか?」

「大丈夫です。ちょっと寝れば」

「そうですか……。でも具合が悪くなったら、メイドにでも言ってくださいね。お医者さまを呼びますから」

「ありがとう」


 そう言って、キャンディさまは弱々しく微笑んだ。


          ◇


 球場に向かう途中も、雨は一向に止む気配を見せなかった。

 来るだけ無駄だったのかしら、と私はため息をつく。

 球場の入り口に馬車を停めてもらって降りると、御者に言う。


「ごめんなさいね、雨の日に」

「いいえ、ラルフ坊ちゃんは雨の日でも雨天中止が決定するまでは必ず球場に来ますから、慣れていますよ」


 そう言って笑ってくれたから、私はほっと息を吐く。


 それからひとまずユニフォームを更衣室に置くためにそちらに向かう。中に入ると辺りを見渡してみるが、誰かがここに立ち入ったような気配はまったくなかった。

 晴れた日だって、もう数えるほどの令嬢しか練習には来ていないのだ。雨ならなおさら、来なくなるに決まっている。


 着替えずに様子を窺おう、と私は荷物をロッカーにしまうと更衣室を出て、一塁側ベンチのほうに向かって歩いた。


「あれっ、コニーちゃん」


 ふと話し掛けられて、振り返る。ジミーだった。ユニフォームに身を包んでいる。

 彼はこちらに歩み寄りながら言った。


「雨なのに来たの?」

「ええ、止むかもしれないと思いまして。でも止みそうにないし、無駄だったかもしれませんわ」


 私は苦笑しながらそう答える。

 けれどジミーは、人差し指を立ててチッチッチ、と横に何度か動かして言った。


「それが無駄じゃないんだなあ」

「え?」


 首を傾げると、ジミーはにかっと歯を出して笑った。


「ブルペンがあるっす」

「ブルペン?」

「ピッチャーが練習するところ。キャッチャーが練習するところでもあるけど。屋根があるから。こっちっす」


 私はジミーがさっさと歩き出す後ろを、慌ててついていった。



*****


ブルペン・・・作中でジミーが言った通り、ピッチャー及びキャッチャーが投球練習する、球場内に設置された場所のこと。

この殿下の球場では、現代日本の多くの球場と同じように、ベンチ裏あたりに設置されている設定。


ファウルゾーンに設けられている球場もいくつかあり観客席から見えることから、今肩を作っている選手は誰か、中継ぎは誰を出すのか、投手の調子はどうかとか、予測しながら見るのがまたオツだそうで。

けれど、ファウルボールが飛んでくるとわらわらと逃げ惑う投手、捕手、コーチ、ボールボーイたちを見ると、彼らにとっては危険な場所だよなあ、と思います。


「ちょっと心配ですがブルペンには杉内がいます」という実況を思い出すたび、フフッとなるのは私だけではあるまい。

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