第37話 毎日練習しています
私たちの朝は、ランニングから始まる。
「おはようございます、キャンディさま」
「おはようございます、コニーさま」
そう挨拶を交わし、屋敷の周りを走る。
基礎体力はキャンディさまのほうが圧倒的にあるのか、あまり息を切らしたりしない。
もっと速く走れるだろうに、私に合わせて走ってくれている。
「先に行っても大丈夫ですよ」
そう何度か言ったのだけれど、ううん、と彼女は首を横に振った。
「だって、コニーさまが途中で倒れたときに人を呼びに行く人間が、いなくなるではないですか」
そう言って口の端を上げるから、私はぷう、と頬を膨らませる。
「屋敷の周りを走るだけですから、大丈夫です」
「そう?」
キャンディさまはくすくすと笑い、けれど私の横を走ってくれている。
実際、最初に走ったときには門を出ることすらできなかったのだから、大丈夫と言い切るのも少し躊躇してしまう。
「キャンディさまは、すごいですね」
「なにが?」
私の言葉にキャンディさまは、こちらに顔を向けて首を傾げた。
「わたくし、最初はまったく走れませんでしたの。少しずつ少しずつ距離を延ばしたのですわ。なのに、キャンディさまは最初から走れるんですもの」
「ああ、わたくし、田舎で育ったものですから。小さい頃から野山を駆け回っていたせいでしょう」
「へえ……」
その頃には私の息も上がってしまっていて、しゃべれなくなっていた。
予選の日から一週間。ランニングを始めた日から数えれば二週間。
そうそう簡単に体力がつくものでもない。この程度なのは仕方ない。私は私にできることをやるだけだ。
キャンディさまは、私がぜえぜえと息を切らして走るその様子を見て、微笑む。
屋敷の玄関に到着する頃には、私は汗だくでしゃがみ込み、キャンディさまは平然と立っている、それがいつもの光景だった。
それから身体を拭いて、朝食をとり、そして球場に向かう。
球場に到着すると、防具を装着して、ジミーに教えてもらいながら練習をする。
最近は、捕手の構えをすることも、あまり気にならなくなってきた。
選手たちは自分たちの練習に集中しているようだったし、嘲笑を向ける令嬢たちも、一週間も経った頃には、数えるほどになってしまったからだ。
「どうして来なくなっちゃったんっすかね」
ジミーが首を傾げて言う。
近くにいたエディさまがそれに答えた。
「体調がよくないとか、家の用事があるとか、いろいろ聞いてはいますが、たぶん嘘でしょうね」
ため息をついて、そう言う。
「嘘?」
私とキャンディさまが小首を傾げると、エディさまが応えてくれる。
「単純に、面倒になったんでしょう。練習することが」
「ええ?」
「でもまあ本選は、結果がすべてですから。一度も練習しなくたって、捕れればそれでいい」
「それはまあ……そうなんでしょうけれど」
ジュディさまもそう言っていた。
『ここに練習しに来るのかどうかは評価対象ではない』と。
だから、『本選までここに来るつもりはありません』と。
そして言葉通り、彼女は一度も練習に来てはいない。
私は練習せずに捕球だなんてできる気がしないから、その選択肢はないけれど、才能溢れる人たちならばそれでもいいのだろう。
「甘いと言わざるを得ませんけどね」
そうつぶやくとエディさまはくるりと振り返り、声を上げた。
「ラルフー!」
一人で三塁側ベンチ前でバットを振っていた兄が、その声に顔を上げる。
来い、とエディさまが手招きをするけれど、兄は首を横に振る。
私がここにいるからだろう。『贔屓』と思われないように、兄妹が接触するのはずっと避けている。
「いいから!」
エディさまがそれでもちょいちょいと手を動かして呼ぶと、兄はこちらに駆けてきた。
「なんだよ、エディ」
二人が話しているのを、私は黙って見つめる。
なんだか兄と会うのは久しぶりの気がする。まだ一週間しか経ってないのに。
「お前さ、令嬢たちに教えてただろう?」
「ああ、うん。何人か」
エディさまは兄に対しては、ずいぶん砕けた話し方をするんだな、と心の中で思う。
「教えた令嬢方、今も来てるか?」
「来てない……一人も……」
兄は肩を落としてそう答える。
「僕、本当にコーチに向いてないのかも……」
言いながら、両手で顔を覆う。
この姿、いつか見たような。
「引退したあと、どうしたらいいんだろう」
「なんでそんなこと今から心配してるんだよ」
苦笑しながらエディさまが言う。そして続けた。
「なにを教えた?」
訊かれて兄は、顔を覆っていた手を外すと、斜め上を見ながら言った。
「なにって……まずは走って足腰鍛えないといけないから、毎日走るように言ったよ。捕手の体勢って足腰強くないとダメだろ?」
兄の言葉に、ジミーが横で深くうなずいている。
「それから?」
「あとは怪我しちゃいけないからストレッチと。それからキャッチボールくらい。僕、捕手じゃないからそれ以上は無理だよ」
「なるほどね」
エディさまはそれを聞いて、うんうん、とうなずく。
「えっ、まずかった?」
慌てたように言う兄に、エディさまは軽く首を横に振った。
「いや? ただ、令嬢方にはちょっと厳しかったんだろうなあ、と思って」
「えええ?」
心底驚いたように兄は声を上げる。
けれど、私にしたように、兄は「しまっていこう!」ってしまっていったんだろうな、と簡単に想像できた。
「だって基本中の基本じゃないか。むしろ足りない。これくらいで厳しいとか言われても」
「でも令嬢方には厳しかったんだよ。だから来なくなった」
「ええー……。僕のせい?」
「いや。『結果がすべて』っていう言葉に甘えたんだろうね」
エディさまのその言葉に、ああ、と私は合点がいった。
結果がすべてなのだから、練習したって意味がないかもしれない。
毎日練習したって、結果がでないかもしれない。
だったら、厳しい練習なんてしたくない。
そんな風に、考えが甘える方向に向かってしまったのだろう。
「それから、捕手の構え方に、どうしても抵抗があったんだろう」
それはわからないでもない。
今だって抵抗がないわけではないのだ。
少しずつ慣れてはいるけれど。
「ま、それもこれも、殿下がグラウンドに出てきていれば、違ったのだろうけれどね」
そう言ってエディさまは小さく笑った。
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