第36話 殿下の球を捕るために

「ま、まあ、とにかくやってみるっす」


 ジミーがそう言って、私たちをグラウンドのほうにうながした。


「そうね、とにかくやってみないと」


 キャンディさまは明るい声でそう言って、歩き出す。

 けれどそれは、無理に出している声音のような気がした。


 本塁の後ろのほうまで三人で歩いていき、そして私たち二人とジミーは向き合った。


「えーと、これが基本的な構えっす」


 ジミーは肩幅に足を開き、そしてそのまましゃがんだ。

 選考会予選のときに見た構え、そのものだ。

 それから右腕を後ろに回し、左のミットを前にして構えた。


「こんな感じっす。やってみてください」


 そう言われて、キャンディさまと私は顔を見合わせる。

 こんな感じと言われても。


「どうかしたっすか?」


 ジミーは私たちの様子を見て、首を傾げている。

 私は思い切って言ってみる。


「あの……」

「はい?」

「足は……閉じてはいけませんか?」


 ジミーはしばらくなにも言わずに私たちの顔を見上げて。


「ああー……」


 と言って、頭をぽりぽりと掻いた。


「そっかー……。それも問題なんすかー……」


 そう口の中で言って、しばらく俯いて考え込んでいたけれど。

 ぱっと顔を上げて、きっぱりと言った。


「ダメっす。そこは譲れないっす」


 私たちはその答えに、息を呑む。

 さきほど、防具を装着するためにメイドを待機させておく、ということにはあっさりと許可を出した彼が、強い口調で続ける。


「足はすぐに動くようにしておかないと、危ないっす」

「で、でも、こんなに防具を着けているのだし」

「危ないし、どんな球が来ても動ける体勢でないと、殿下の球は捕れないっす」


 殿下の球は捕れない。

 その言葉は、私の胸に突き刺さった。


 キャンディさまは動揺した様子で、ジミーに言っている。


「でも、わたくしたち、これでも婚姻前の淑女ですし」

「ダメっす。できないなら、諦めるっす」


 ジミーは断固として引く気はなさそうだ。


「でも……」

「わかりました」


 私はジミーにきっぱりと告げる。


「コニーさま?」


 驚いたようにキャンディさまがこちらを見つめている。


「わたくし、やります」


 そう言うと、私は足を肩幅に広げる。

 そうは言ったものの、いざしゃがみ込もうとすると動けなくなった。

 ジミーもキャンディさまも、こちらを固唾を飲んで見つめている。


 恥ずかしい。恥ずかしいに決まっている。

 でも、恥ずかしいからといって逃げれば、王太子妃の候補にすらなれない。

 恥はかなぐり捨てるしかない。


 だって、捕りたいんだもの。ウォルター殿下の球を、捕りたいんだもの。

 そして、彼に誇りに思ってもらいたいんだもの。


 ウォルター殿下は、私が足を広げて構えたからって眉をひそめたりもしないし、笑ったりもしない。そのことだけは、確信できた。


 私は心の中で、せーの、と言って、思い切ってそのまま座った。

 恥ずかしい。やっぱり恥ずかしい。

 ぎゅっと目を閉じる。今、周りからどんな風に見えているのか、想像もしたくない。

 顔がかーっと熱くなってきた。きっと真っ赤になってしまっているだろう。


 ふーっ、と息を吐いて、目を開ける。

 ジミーが何歩か前で、やはりしゃがんで座っていた。


「いっ、いかがっ、ですかっ」


 声が上擦ってしまっていた。


「右手は背中か、自分の足首あたりに置いて。利き手をケガしないように」


 対してジミーは冷静な声音で、そう返してくる。それでなんとか落ち着けた。


「はいっ」

「グラブは前に。なるべく正面に向かって広げて」

「はいっ」

「左腕、まっすぐに伸ばさないで。ちょっと曲げて。柔らかく受け止めないといけないっすから。そうそう」


 しばらくその体勢でいると、ジミーは、うん、とうなずいた。


「いいっす」

「本当ですか!」


 ジミーは親指を立ててこちらに向かって差し出すと、片目を閉じた。


「いっぱしの捕手っす」

「よかった」


 ほっと息を吐き出すと同時に気が抜けてしまったのか、後ろにころんと転がってしまった。


「きゃっ」

「コニーさま! 大丈夫?」

「だ、大丈夫です」


 私は慌てて身体を起こし、その場にぺたりと座り込んだ。

 はあ、と息をついてから、言う。


「この体勢、けっこうつらいし、キツいです」

「うん、そうだと思うっす。慣れていないと」

「じゃ、慣れないと」


 言いながら私は身体についた砂を手で払いながら立ち上がり、そして視線を感じて首を巡らせた。

 向こうのほうでキャッチボールをしていたらしい令嬢たちが、こちらを注視していたらしい。

 そして、グラブを口元にやって、ひそひそと何ごとかを話し合っている。


 遠いからよく見えないけれど、きっと眉根を寄せていることだろう。そして嘲笑していることだろう。

 恥ずかしくないのかしら、淑女としてありえませんわ、いくらなんでもあれは、とでも言っているのだろう。もちろん聞こえてはいないけれど、きっとそうに違いないのだ。


 けれど、恥じることはない。

 私は胸を張った。


 だって、予選会のときだって、ユニフォームを着た私を見て皆が嘲笑した。

 けれど殿下は言ったのだ。私のほうが正しいって。

 だから今回もきっと、私のほうが正しい。

 そして殿下がこの場にいたら、よくがんばっているね、と褒めてくださる。きっとそうだ。


「あー、恥ずかしかった!」


 笑ってキャンディさまにそう言うと、彼女は虚を突かれたようになにも返してこなかったけれど、少しして、笑った。


「そうね、恥ずかしいけれど、わたくしもやらないと」


 そう言って、キャンディさまも、えいっとしゃがんだ。


「きゃっ」


 けれどすぐに後方にころんと転がってしまう。


「いったー……」

「そうなっちゃいますよね」

「重心を置くところがおかしいんすかね」

「だってこんな格好、したことないんですもの!」


 そう言って、私たちは笑いながら、立ったり座ったり転がったりした。

 そうしているうちに、周りの視線は気にならなくなっていったのだった。

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