第31話 私の決意

 屋敷に着くと、兄は一番に馬車から降りて、出迎えにきたメイドに何ごとかを告げる。

 そして馬車から降りる私たちに言った。


「僕、これから二週間、いないから」

「えっ」

「合宿。球場近くで泊まり込み」

「ああ……」


 そうだ。


『うちのチームの選手を待機させておくから、教えてもらうといい』


 殿下が、そう言った。

 つまり、これから二週間、王太子妃選考会に参加する令嬢たちのために、殿下のチームの選手たちは球場にいなければならないのだ。


 今までのように、屋敷で兄に練習に付き合ってもらう、ということができなくなる。

 けれど、それは当然のことなのだ。

 もしかしたら、『ずるい』と思われてしまうのは、仕方のないことかもしれない。

 私は意を決して、顔を上げ、兄に告げた。


「わたくし、球場に行っても、ラルフ兄さまには教わりません」

「ん?」

「『贔屓』、と思われてもいけませんから」

「そうか、そうだね」


 兄は私の頭に手を乗せると、ポン、と軽く叩いた。


「がんばって」

「はい」


 私がうなずくと、兄はにっこりと微笑んだ。

 その笑みになにか含まれているような気がして、私は兄に尋ねる。


「あの、お兄さま、もしかして、待っていてくれたのは」


 私が更衣室から出てくるのを待っていてくれたのは、もしかしたら、私がこう言い出すのを見越して、最後のアドバイスをするつもりだったのかもしれない。


「いや、僕も荷物を取りに帰りたかったからだよ」


 そう言ってまた、ポンポン、と私の頭を叩いた。


「じゃあね、コニー、がんばって」


 それからキャンディさまにも視線を移す。


「キャンディ嬢もがんばって」

「ありがとうございます」


 キャンディさまは、兄に向かって深々と頭を下げた。

 それを見届けると、メイドが持ってきた荷物を手に取り、そのまま馬車に乗り込んで兄は去っていった。


          ◇


 キャンディさまを客室に案内し、夕食を一緒にとり、寝るために各々の部屋に帰るとき。

 彼女は客室に入る前、私に振り返る。


「本当に助かります。ありがとうございます」


 キャンディさまはそう言って、兄にしたように、私にも深く腰を折った。


「い、いえ、そんな」


 私は慌てて両手を胸の前で振った。


「どうかお顔をお上げになってください。わたくしはなにもしておりませんもの。兄が提案したことですし」

「けれど、わたくしたちは本選では敵同士になるのですもの。普通なら反対するところですわ」


 私はその言葉に詰まってしまう。

 ただ言い出さなかっただけで、心の中ではそう思っていたのだから。

 なんだか後ろめたくて、気持ちが悪い。自分の中のずるさが、どんどん顔を出してきている気がする。


「と、とにかく、お顔を上げてください。そんなお礼を言われるようなことではありません」


 私がそう言ってからやっと、キャンディさまは顔を上げた。

 そして微笑む。


「そう言っていただけると」

「今日は疲れたでしょう。おやすみなさいませ」

「おやすみなさいませ」


 そう就寝の挨拶をして、私たちは各々の部屋に入る。


 私は自室に入って寝衣に着替えると、明かりを消してベッドに倒れ込んだ。

 本当に、疲れた。こんなに密度の濃い一日を過ごしたことなんて、今までの人生でなかった気がする。


 私は枕に顔を埋め、今日一日のことに思いを馳せた。

 いろいろあったけれど、本当によかった。予選を通過して。

 もし通過できていなかったら私は今頃、この枕を涙で濡らしていたことだろう。


 本選はどうなるのだろうか。

 本当に二週間で、殿下の球を捕れるようになるの?

 私にはきっと、野球の才能なんて、欠片もない。それがよくわかった。


 それに。

 仮にこの二週間、一生懸命練習して、殿下の球を捕れるほどに上達したとしても。

 本当に王太子妃になんてなれるのだろうか。


 ジュディさまが言っていた。


『殿下が、捕りやすい球を投げてくださればいいのですけれど』


 あれは、どういう意味なのだろう。

 もしかしたら、王太子妃にしたい人間にだけ捕りやすい球を投げる、なんてことが行われるのだろうか。


 だとしたら、私なんてきっと無理だ。

 だって私はとてもずるい人間だもの。そんな人間が王太子妃だなんておこがましい。

 元々、王太子妃になろうだなんて、無理な話だったんだ。

 ありえない話に飛びついて、そして浮かれていたのだとしたら、私はなんて滑稽なんだろう。


 暗闇の中で一人で考えていると、思考がどんどんと悪いほうに流れていく。


 ジュディさまは、とてもお綺麗だったわ。野球もとても詳しくていらした。殿下の隣にいても、お似合いで。

 キャンディさまは、とても才能あふれる方だわ。殿下は彼女の球を見て、すごく嬉しそうだった。覚えておこう、って言っていらした。


 選ばれるとしたら、彼女たちのような人なのだわ。

 私なんて。


 気持ちが深淵の奥深く、どこまでも落ち込んでいく気がする。

 どこまでも、どこまでも、暗く。

 けれど。


『諦めてはいけない』


 ふいに脳裏に浮かぶ声。

 私は暗闇の中、がばっと身を起こした。

 今、真っ黒になっていた私の気持ちに、突如、光が差したのを感じた。


 そうだ。ウォルター殿下が仰ったのだ。

 あの、振り逃げについてお話してくださったときに。


『私は、諦めずに走る選手たちを、誇りに思うよ』


 そうして、柔らかく微笑んでいらしたのだ。

 そうだ、そうだった。殿下はそういう人だった。


 私は今、殿下の誇りに思ってもらえるような考え方をしている?

 否。

 きっと、殿下が私の心の中を覗いたら、呆れてしまうことだろう。


「ウォルター殿下……」


 私は自分の胸に両手を重ねて当てて、目を閉じる。


「わたくし、がんばります」


 決意を胸に、そうつぶやく。


「最後まで、絶対に、諦めない」


 自分で言った言葉が、胸の中に染み込んでいく。


 ジュディさまが仰っていたことは、気にならないと言ったら嘘になる。

 本当は、もうすでに決定しているのでは?

 けれど、私の中の殿下は、そういう小細工をする人ではない。

 決まっているなら決まっているで、それはそれで発表して、そして野球観戦会はまた別に開く、そんな風にする人のように思える。


 私は殿下を信じよう。

 そして、彼に誇りに思ってもらえるように、がんばろう。

 私はそう、決意を新たにした。

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