第30話 キャンディさまの事情

 近くに宿をとっているというキャンディさまを送ることになり、私たちは三人で馬車に乗り込んだ。


「わたくしの屋敷は遠いものですから」

「シスラー領は確かに遠い。こちらに別宅は?」

「ありませんの。ですから宿をとるしかなくて」


 苦笑しながら言うキャンディさまに、兄は言った。


「じゃあ、うちに泊まったらどうだろう?」

「えっ」


 私とキャンディさまは、兄の提案に同時に顔を上げた。


「だって元々、一日で終わるはずが、予選だ本選だ、で延び延びになっているんだ。この先、どうなるかわかりゃしない。殿下は柔軟性があるといえば聞こえはいいけれど、気まぐれで周りを振り回す人間だから」


 そう言われると、確かに。


「うちに泊まれば便利だと思うよ。宿だといろいろと自分でやらなくちゃならないし、集中できないだろう。うちなら球場に向かうにしても、コニーと一緒に行けばいいし」

「でも……」


 キャンディさまは兄の提案に戸惑っているようだけれど、あと一押しで乗ってくるような雰囲気はする。


「それはご迷惑ではないでしょうか。ありがたい申し出ではありますけれど、そこまで甘えるわけには」

「迷惑ではないよ。それに、野球が上手くなるには、やっぱり切磋琢磨する仲間がいないとね。だからこれは、コニーのためにもなる提案なんだ」


 微笑んで言う兄の言葉に、キャンディさまはほっと息を吐いた。


「でしたら、甘えさせてください」


 そう言って、キャンディさまは頭を下げた。


 私はといえば、少々、複雑な気分ではあった。

 キャンディさまはとてもいい人のように思えるし、確かに誰かと競い合ったほうが上手くなれるのかもしれない。


 けれど彼女は、王太子妃という立場を競う、強敵でもあるのだ。

 それでなくとも、彼女はキャッチボールをすぐにこなしてしまう器用さを持ち合わせている。

 敵に塩を送るような真似は、避けたほうがいいのではないだろうか。

 だからといってその場で兄の提案を否定するのも、人としてどうかとも思う。だから私は、沈黙という選択肢を選んだ。


 宿に到着すると、「では荷物を引き上げてまいります」と言い残して、キャンディさまは宿の中に入って行った。


 馬車の窓から覗くとその宿は、貴族の娘が宿泊するようなきちんと体裁が整っている建物ではなくて、私は少し驚いてしまう。歴史があると言えばそうなのかもしれないけれど、古びていて、壁が少し崩れていたりもしている。


 もしかしたら王太子妃選考会のために、いい宿は埋まっていたのかしら、と考える。

 けれど兄は言った。


「シスラー子爵家はね、今はさほど裕福ではないはずだよ」


 兄の言葉に、私は顔を上げる。


「きっと彼女は、この王太子妃選考会のために、なけなしのお金をかき集めてやってきたに違いないんだ」


 私は言葉を失い、兄の言葉に耳を傾けた。


「これからは死に物狂いで王太子妃という立場を狙ってくるよ。コニー、この選考会にはね、そういう人も混じっているんだ」

「……はい」

「生半可な覚悟では勝ち残れない。それを知るためにも、彼女と一緒に練習するのはいいことだと思う」

「はい」


 私は膝の上で、ぎゅっと手を握りしめる。

 私の恋心は、キャンディさまの決意を上回るものだろうか。それが問われている。

 がんばります、とすぐさま返事ができなくて、私は俯いてしまった。


「お待たせしました!」


 そのとき、宿から帰ってきたキャンディさまが、満面の笑みで馬車の扉を開けた。


          ◇


 それから屋敷に帰る道中、兄は私たち二人に解説をしてくれた。


「えーと、殿下は、投げる三球の球種を仰られたし、投げてみせてはくれたのですけれど、よくわからなくて」

「なにを投げるって?」


 ラルフにだけは言わないよ、という殿下の言葉通り、兄はなにも聞いていないようだった。

 私は荷物の中からメモした紙を慌てて取り出し、読み上げようとした。


「ストレートと……」

「貸して」


 兄は私の手の中にあったメモを取り、目を通したあと、顔を上げた。


「ストレートは、まっすぐやってくる球だよ。一番球速が出る球だ。特に殿下のは浮き上がってくるように感じるからなあ」


 そう言って眉をひそめている。


「たぶん、一球目から脱落者が大量に出ると思うよ」

「そんな……」


 確かに、一球目が一番早く見えたし、一番難しいように見えた。

 やはり一球目から候補者を絞り込むという目的なのだろうか。


「で、でも、二週間後に本選、ということは、練習すれば捕れるようになるという殿下のお考えですよね」


 慌てたようにキャンディさまは身を乗り出して言っている。


「あー、まあ、捕るだけなら捕れるかもしれないけど……どうだろうね」


 兄は頭をぽりぽりと掻きながら、困ったように言う。


「とにかく殿下のそういう見通し、あまり信じちゃダメ」

「ええー……」

「あの人、自分を基準に考えがちだから。自分ができるから人もできるだろうって」


 それはエディさまも言っていた。

 それが選手たちの共通認識なのかもしれない。


 兄はメモを見ながら続ける。


「二球目は、スプリット・フィンガード・ファストボール」


 私たちは同時に首を傾げる。


「名前が長いから、スプリット、って言ってるだけ」


 それから兄は腕を前に伸ばしながら下を指さすように動かす。


「スプリットは落ちる球だよ」

「落ちる?」

「そう。途中までほとんどストレートに近い軌道でやってきて、手前でふっと落ちる。ストレートと同じフォームだから、ストレートの練習ばかりすると騙されちゃうかもしれないな。二球目を受けるときは、落ちるって頭に入れないとね」

「へえ……」


 ちゃんと覚えておかなくちゃ、と私は頭の中に今の話を書き留める。

 兄は手に持ったメモを見て、顔を上げた。


「三球目が書いてないけど」

「それが……。魔球って、なんでしょう」


 私がそう言うと、兄はおうむ返しにしてくる。


「魔球?」

「はい」

「殿下がそう仰った?」

「はい」


 そう答えると、兄は天井を見上げてなにかを思い出そうとしているようだった。


「あー……聞いたことはあるなあ。でも、見たことはない」

「そんな」


 頼みの兄が、見たことはないだなんて。


「公式戦では投げないって、断言なさっていたから」


 そう言って兄は、うーん、と考え込んだ。



*****


ストレート・・・いわゆる「まっすぐ」。

「浮き上がるように感じる」のは、普通落ちるものがなかなか落ちないのでそう感じるらしい。

とはいえ当然、球は落ちています。万有引力なめんな。

回転数が多いので初速と終速の差が少なく、うーだらぱーだら。

「火の球ストレート」は本当に素晴らしかった。


スプリット・フィンガード・ファストボール・・・高速フォーク。作中でラルフが言った通りの球。

ストレートかと思ったら落ちるので、ストレート狙いだとバットを振らされる。

単にスプリットと呼ぶことが多い。文章だとSFFとも。

長い。そしてカッコイイ名前。個人的には「クロスファイヤー」の次に必殺技っぽい野球用語だと思う。

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