第32話 二週間が始まりました

 朝、ランニングを済ませて汗を拭きながら自室に帰っていると。

 キャンディさまの部屋の扉が目の前で開いた。


「あ、おはようございます」


 誰かいると思っていなかったらしく、「きゃっ」と声を上げている。

 そして恐る恐る、といった態で扉から顔を覗かせた。


「お、おはようございます。コニーさま、お早いんですのね」

「はい。早くに目が覚めたので、屋敷の周りを少し多めに走ってまいりました」


 そう言って微笑むと、キャンディさまは何度か目を瞬かせている。


「もしかして……」

「はい?」

「王太子妃選考会のために、ランニングを?」

「はい。募集要項をいただいた日から始めています」


 私がそううなずいて答えると、キャンディさまは驚いたように口を開いた。


「本当に、がんばっていらしているのですね」


 言いながら、客間から出てくる。


「わたくしは不器用ですから、努力しないと」


 そう苦笑しながら言うと、キャンディさまは微笑みを返してきた。


「努力する、というのも才能だと思いますよ」

「え?」

「どうにも継続できない、という人はいるんです」


 キャンディさまの話に首を傾げたところで、メイドが朝食の用意ができたと私たちを呼びに来て、その話は終わった。


          ◇


 私たちは二人で馬車に乗り込んで、球場に向かう。


「わたくしも、コニーさまのようなユニフォームを買わなくちゃ」

「これは兄が用意してくれたんです。一番小さいのを買って来てくれて、それをメイドに手直ししてもらって」

「へえ、じゃあ今日、ラルフさまに訊いてみようかしら」

「もし手直しが必要なら仰ってください。メイドに直させますから」


 などと話をしていたけれど、ふいにキャンディさまは私のほうを見て首を傾げる。

 黙ったままじっと見つめているので、私は身を引いた。


「えっと……あの?」

「ああ、ごめんなさい」


 キャンディさまはそう言って口元に手をやった。そして自信なさげに続ける。


「いえ、わたくしたち昨日会ったばかりだから、こんなことを言うのも変なんだけれど」


 それから首を傾げる。


「なんだか、昨日とずいぶん印象が違うような気がするの」

「わたくしの?」

「ええ」


 キャンディさまは、こくんと首を前に倒した。

 心当たりが、ある。昨日の私と今日の私が違うとすれば、それは。


「昨日の夜、いろいろ考えましたから」


 私は胸に手を当てて、昨日の夜にしたばかりの決意を反芻する。

 絶対に、諦めない。

 だって私、ウォルター殿下が好きなのだもの。

 だから、彼に誇りに思ってもらえるような私になろうって決めたのよ。


「がんばらないと、キャンディさまには敵いませんものね」


 そう言ってくすくすと笑うと、キャンディさまは何度か目を瞬かせたあと、小さく苦笑した。


「強敵って思っていただけているのかしら?」

「もちろんそうですわ」

「だったらわたくしも、がんばらないと」

「あら、がんばらなくともいいですわ。脱落してくださったら楽ですもの」

「言うわねえ」


 そう軽口を叩き合ったあと、私たちは顔を見合わせて、ぷっと噴き出した。

 ひとしきり笑うと、キャンディさまは言った。


「きっとそれが、コニーさまの本来の表情なのね」


 そう微笑むから、私は自分の頬に手を当てた。なんだか少し、照れくさかった。


          ◇


 球場に到着して更衣室で着替えていると、今日は何人かの令嬢が入ってきた。


「おはようございます」

「あら、おはようございます」


 けれど彼女らは、ロッカーに収めてあった荷物を手に取ると、すぐに出て行こうとしている。


「ではごきげんよう」

「えっ? あっ、あの」


 さっさと帰ろうとするので、私は思わず呼び止めた。

 私の声に彼女らは振り向く。


「なあに?」

「もしかして……もう、練習を終わられたんですか?」


 まだ昼にもなっていない。

 早朝からやって来ていたのだろうか。けれど、それにしても。

 一人の令嬢が、軽く肩をすくめて言った。


「だって、王太子殿下がおられないのですもの」

「えっ」


 今日は、ウォルター殿下が来るということになっていたのだろうか。私は聞いていない。

 けれど彼女らは口々に続けた。


「もしかしたら、わたくしたちが練習しているところをご確認なさるかと思いましたけれど」

「それでしたら、一目、お姿を拝見させていただこうかと参りましたのに」

「いらっしゃらないのに練習してもねえ」

「張り合いがありませんわ」


 そう言ってぞろぞろと更衣室を出て行こうとしているが、扉を出て行く寸前、一人の令嬢がこちらに振り向いた。


「コニーさまでしたっけ?」

「え、はい」

「ですから今日は、いくら練習したって殿下には見せつけられませんわよ。残念」


 そう言ってくすくすと笑いながら、更衣室を出て行く。

 私は呆然とその後ろ姿を見送った。


「ま、殿下がいらっしゃればやる気は出るのでしょうけれど」


 背中からため息混じりの声がして振り向く。キャンディさまが閉まった扉を見ながら言っていた。


「殿下の見ていないところでは練習しないなんて、もう本番は諦めたも同然ですわ」


 それならば、あの人たちは敵ではない、と確信したのだろう。


「なるほど、脱落してくださったら楽ですわね」


 そう言って、にやりと口の端を上げて笑った。



*****


さてここで、捕手豆知識。ストーリーには関係ないですが、言いたいので言う。

野球中継などで、画面の隅にバッターの成績を表す漢字が書かれているのを見たことがないでしょうか?

「中安 遊直」とか。

中安はセンター方向へのヒット、遊直はショートライナーを表します。中(堅手への)安(打)、遊(撃手への)直(飛球)を、漢字表記の上に略しているんですね。

他にもたくさんこうした漢字表記はありますが、ここでは割愛。


で。捕手がキャッチした場合は、捕と略されます。

捕邪飛 → 捕手へのファウルフライ。記号のようなものなので、読み方があるってものでもないんですけど、ほじゃひ、と読みましょう。カワイイから。

捕飛 → 捕手へのフライ。ほひ、と読みましょう。カワイイから。


んで。

捕直 → キャッチャーライナー なんですが。こんなんありえるの? と思いますよね。でも、ありえるんです。あったんです。

バッターが打った球がピッチャーに当たり、跳ね返ってきた球をキャッチャーが捕ってアウト、ということが実際にありまして、捕直はプロ野球の歴史の中でただ一度、記録されています。


ちなみにバットにかすった球を捕手がダイレクトに捕った場合は、ファウルチップといいまして、空振り扱いです。

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