第13話 王太子妃選考会予選、始まります
そんな風に練習を重ね、なんとかキャッチボールは無難にできるようになった。
「痣だらけです……」
私の身体の正面側は、あちこち痣ができていた。湯浴みのときにメイドが絶句していて、しくしくと泣きながら身体を拭いてくれた。申し訳ない。
「うん、最初から硬球を使ってまともにキャッチボールしようとしたのが悪かった……」
兄は力なくそう言った。
何度も何度も「目を切るな」、と言われていたのは、「視線を逸らすな」という意味だったらしい。
「ごめん、練習中は普通に使っている言葉だったから……」
「大丈夫です、お兄さま。途中からなんとなくはわかりましたから」
けっきょく、すぐ近くからポイとボールを放ってもらい、それを捕るところから始めた。何度も何度も繰り返して、徐々に距離を開けていった。
投げるのも、まずは肘だけで何度も投げ、慣れてきた頃に上半身を使って投げた。今は、全身を使って投げる、ということがなんとなくはわかってきた気がする。
兄は、一球ごとに細かく指示してくれて、フォームも最初の頃よりは安定してきたと思う。
「ギクシャクはしているけれど、一週間でここまで上達したんだから、大丈夫」
「はい」
兄に言われて、私はうなずく。
けれど、胸がドキドキしているのが抑えられない。
ついに、今日。
あっという間に一週間が過ぎて、予選会が行われるのだ。
まだ朝早い。朝日が昇ったばかりだ。
けれど私を見送るため、兄が玄関先にまで出てきてくれている。
兄はこほん、と一つ咳払いをして。そして。
「しまってこー!」
ふいに声をあげた。
馬車を引く馬が驚いて前足を上げていて、御者が慌ててなだめている。
「しまっていきます!」
私が手の甲を差し出すと、兄がその上に手を乗せた。
「ファイッ!」
「おー!」
そして二人して拳を上に突き上げた。
そして私は兄に見送られ、兄に貰ったユニフォームとグラブを手に、指示された球場に向かうため馬車に乗り込んだ。
◇
予選会場は、いつも兄が使っている球場だ。
「えっと、着替えは……」
今は外出用のワンピースを着ているけれど、ユニフォームに着替えなくては。
何度も足を運んでいて、兄たちが使う控室は知っているけれど、今日はどこの部屋を使うのかわからない。
球場の入り口にいた警備兵の人に訊くと、更衣室に案内してくれた。
私は中に入り、兄が買ってくれたユニフォームに着替える。そして髪を後ろできゅっと一つに縛った。
その間、誰も中に入ってはこなかった。
最初に貰った募集要項を荷物の中から取り出し、確認のため見てみると、「一塁側ベンチ前にお集まりください」とある。
広々としていて、三十人くらいは使える更衣室だったけれど、けっきょく最後まで私一人だった。
皆、運動できる服装を着て来たのかしら、それとももう皆、ベンチ前に集まっているのかしら、まだ指定された時間までには余裕があるのに、それともこれから来るのかしら、とグラブを手に取って、首を捻りながら更衣室を出る。
廊下のところどころにある「一塁側ベンチはこちら」と書かれた貼り紙を見ながら、そちらに向かう。
すると、そこにはすでに、何人もの令嬢たちが集まっていた。
ドレスやワンピース姿で。
「えっ」
私は思わず、声をあげてしまう。
それと同時に、令嬢たちがこちらに振り向いた。
するとそのうちの一人が、ぷっと噴き出した。伝染するように、周りの令嬢たちも。
クスクス、と嘲る笑い声が聞こえる。
「嫌だ、少々、気合を入れすぎではなくて?」
「ちょっと、そんなに笑わなくても。気持ちはわかりますけれど」
「張り切りすぎですわ」
カーッと顔が熱くなる。
けれど要項には、「運動できる服装で」「ハイヒールはご遠慮ください」と書いてあったのに。
でも、たまに乗馬服のような軽装のご令嬢もいるけれど、ほとんどが外出用のワンピースだ。中にはガッツリとドレスを着こんでいる女性もいる。
「だって、いくらなんでも王太子殿下の御前ですもの。最低限の装いはねえ?」
クスクス、という笑い声が充満していく。私はグラブを胸に抱いて、俯いてしまった。
そうだったのか、非常識だったのか、でも募集要項を読んで来たし、お兄さまだって……。
そこまで考えて、私は顔を上げた。
そうよ、ラルフ兄さまが、私のために選んで買ってきてくれたユニフォームだもの、なんら恥じることはないわ。
だから私はにっこりと笑って言った。
「ごきげんよう、皆さま」
私を見て笑っていたご令嬢たちは、さきほどまでの嘲笑を隠して、すぐさま微笑んで返してきた。
「ごきげんよう。ええと……」
「ユーイング男爵家のコニーですわ。お見知りおきを」
「ああ、なるほどね」
そしてまた嘲笑が始まった。
「王太子妃など普通なら考えられないお家柄ですわよ」
「それでは張り切るのも仕方ないのかしら」
「でもあの格好……淑女として恥ずかしくないのかしら」
ひそひそとそんなことを話している。聞かれても構わないようだった。
絶対に俯いたりしない、俯いたりするものか、と自分を叱咤していたところに。
「皆さま、少々、お口が過ぎましてよ」
凛とよく通る声がした。
そちらに顔を向けると、ウォルター殿下のようにきらきらと輝く金髪の女性が、背筋を伸ばして立っていた。
「ジュディさま」
「アッシュバーン公爵家の……」
私を見ていた女性たちは、いっせいにそちらに目を向ける。
彼女は質素な外出用のワンピースに布靴、という出で立ちだったけれど、美しい立ち姿に気品が溢れ出ているようで、誰よりも目立っていた。
「ごきげんよう、ジュディさま」
「ごきげんよう」
ジュディさま。私も名前は知っている。このクローザー王国で一番力を持っている貴族と言っていい、アッシュバーン公爵家。その長女。
本来ならば、王太子妃という立場に、一番近い人。
彼女はその形の良い唇の端を上げ、そして言った。
「ウォルター殿下の戯れに振り回されているのは、皆も同じではなくて?」
「えっ」
そのジュディさまの言葉に、その場が一瞬にしてざわめいた。
「ジュディさま、戯れって……どういう意味ですの?」
「あら、そのままの意味ですわよ?」
戸惑う女性たちの中で、ジュディさまだけは落ち着いた様子で、くすりと小さく笑った。
「元々は、女性たちを集めて試合の観戦をさせる、という趣旨の集いだったとわたくしは聞き及んでおります。ウォルター殿下は女性たちの間にも野球を普及させたいようですから」
「まあ……」
「けれど陛下が、そんなことより早く妃を決めよと申されて、陛下の命に応じる形を取りたかったのでしょうね、それで王太子妃選考会という名前になったのですって」
そう言ってジュディさまは、ほほ、と笑った。
「じゃあ、王太子妃選考会だなんて方便で……」
「女性を集めることが目的だったってこと?」
「言われてみれば、こんな風に王太子妃を決めるだなんておかしいですものね」
女性たちはひそひそとそんなことを話し合っている。
王家と親密にしているアッシュバーン公爵家のご令嬢の言葉には説得力もあった。
それを聞いて、私は途端に身体が冷えていくのを感じた。
心当たりは、ある。
あのとき、殿下とこの球場の来客室で言葉を交わしたとき、「女性たちを招待して野球を観てもらう」ことを企画する、と彼は決めたのだ。
ではこれは、本当は王太子妃の選考会などではなく。
女性たちに野球を普及するための集いだったのだろうか。
ではこの一週間やってきたことは、まったくの無駄だったのだろうか。
本当は……そう、目の前にいるこの人のような方が、捕球するしないに関わらず、王太子妃となるのだろうか。
ジュディさまは私の前まで歩いてくると、にっこりと微笑んだ。
「よろしくね、コニーさま」
「よ、よろしくお願いします、ジュディさま」
私がそう返すと、口元に美しい笑みを浮かべ、彼女は身を翻して立ち去っていった。
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