第12話 ボールが怖くて捕れません

 コロコロと転がったボールを拾い上げると、兄は言った。


「いや……こういうのは、慣れだから。慣れ」


 なんだか自分に言い聞かせているように聞こえた。


「うん、この調子で続けていこう。握りは毎回確認してね。時間がかかってもいいから。そのうち、見なくても握れるようになるよ」

「はいっ」


 言われて、こくこくとうなずく。


「じゃあ、今度は受けてみよう」


 そう言うと、兄は突如、ボールを高く空に向けて投げた。

 私もつられてボールの行方を目で追う。


「ボールをよく見てー」


 兄はそんなことを言いながら、顔を上に向けて、ボールに合わせて歩き出す。


「身体の正面に落ちるようにー」


 そして身体の向きを変えて、足を止めた。


「人差し指の付け根で捕るような気持ちでー」


 言いながら、グラブを空に向かって差し出す。


「捕る」


 落ちてきたボールは、兄のグラブの中に、すとんと収まった。

 私は思わず拍手を送っていた。


「すごいです、お兄さま!」

「いや、すごくはないけど」


 言いながら、照れたように笑う。


「じゃあ、軽く投げるからね」


 兄はまた元の位置に戻ると、こちらに向かって、ぽーんと軽くボールを投げた。

 私はあたふたとしながらも、構えてボールがやってくるのを待つ。

 えっと、お兄さまがやっていたみたいに、よく見て。

 よく……見て……。


「きゃーっ!」


 思わず声をあげて、逃げてしまう。

 しゃがみ込んで頭をグラブで隠したところで、後ろのほうでトンとボールが跳ねた音が聞こえた。


「目を閉じない! かえって危ない!」

「はっ、はいぃ……」


 兄の声が飛んできて私は慌てて立ち上がり、後方に転がっていったボールを走って追いかけた。

 そして元の位置に戻ると、握りを確認したあと、えいっとボールを投げた。

 さっきよりは向こうでバウンドして、私はほっと息を吐く。


「うん、まずはボールに慣れることが目的だから、それでいいよ」


 転がったボールを拾うためにこちらに歩いてきた兄がそう言った。


「は、はい」

「じゃあ、投げるからね」


 兄はまた元の位置に戻ると、さっきよりもふわっとした軌道でボールを投げてきた。

 目を閉じない。ボールをよく見て。

 私は心の中でそう唱えながら、ボールの正面に回り込もうと足を動かす。

 でも。


「きゃーっ!」


 怖い!

 また私はグラブで顔を庇うようにして目を閉じてしまった。


「グラブを上げたままボールを追うと視界が狭まる! グラブは捕る直前に出して!」

「はっ、はいぃ……」


 私はまた後ろに転がっていったボールを追いかける。

 そしてそれを拾うと、また握りを確認しながら元の位置に戻った。


「えいっ」


 そしてまた投げる。

 やっぱり手前に落ちてしまって、ため息をつく。

 どうしたらいいのかしら。手を離すのが遅いのかしら。だから下に落ちるのかしら。

 そんなことを考えている間に、また兄は「いくぞー」と球を投げてきた。

 ぱっと顔を上げるともう近くに球が来ていて、私は驚いて「きゃーっ!」と顔の前にグラブを出した。

 すると今度は球はグラブに当たって跳ねて、後ろに飛んでいく。


 怖い! 今日一番怖かった!

 というか、けっこうな衝撃が手にあった。あんなのが当たったら……。

 すうっと血の気が引いた感覚がした。


「練習中は、ボールから絶対に目を切らない!」


 兄の声が庭に響き渡る。


「はいぃ……」

「目を切ったら怪我するぞ!」


 目を切ったらその時点で大怪我なのではないだろうか、とか思ったけれど、言い返す余裕はさっぱりなかった。


          ◇


 また兄の部屋に帰った私たちは、テーブルセットに向かい合って座っていた。

 兄は顔を両手で覆って、肘をテーブルに乗せている。


「……そういえばエディに、コーチには向いていないって言われたことがある……」


 兄の手の向こうから、くぐもった声が聞こえてくる。


「そ、そうなのですか」

「僕、頭より先に身体で覚える人間だから……」


 覆っていた手を今度はテーブルの上で組んで置くと、はーっと大きくため息をついた。


「いや、大丈夫……大丈夫……野球は九回ツーアウトから……」


 なにやら口の中でもごもごと、自分に言い聞かせるようにつぶやいている。


「あ、あの、ラルフ兄さま、ご、ごめんなさい」


 兄が思っていたよりも、上手くできていないのは明らかだ。

 私の言葉に、兄は顔を上げてこちらを見た。


「わたくし、上手くできなくて……」


 肩を落としてそう言うと、兄は小さく笑った。


「いや、コニーが上手くできないのは仕方ない。僕の教え方が悪いんだと思う」

「そんなこと」

「だってコニーは、この僕の妹なんだからね」


 そう言って兄は歯を出して笑う。


「必ず上手くなるから。大丈夫」

「……はいっ」


 私はとにかく微笑んだ。兄も微笑み返してくる。

 私が落ち込んでいても、仕方ない。

 そんな暇があるなら練習して上手くなればいいんだ。

 だって私は、ラルフ兄さまの妹なんだもの。

 王太子殿下のチームで活躍するお兄さまの妹なんだもの。


「わたくし、きっと上手くなって、お兄さまはコーチに向いているって言わせてみせますわ」


 そう言って両手でグッと拳をつくってみせると、兄は、ははは、と笑った。



*****


野球は九回ツーアウトから・・・野球におけるロマン。

あと一つアウトを取れば試合終了というところから見せる奇跡の逆転劇。

とはいいながら、けっこうよく見る。もう嫌だ。


野球でなくとも、絶望的状況だけれど負けが決まったわけではないのだから最後まで諦めてはいけない、という意味で使われます。


余談。

過去には九回ツーアウトスリーストライクからの逆転劇もありました。

スリーストライクから振り逃げ成立による得点からの逆転です。

通称、「松山の悲劇」。

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