第4話 トレーニング開始です

 屋敷に帰ってきた兄は、私の格好を見てため息をついた。


「そんな気はしてた……」


 私は乗馬服を着ていた。

 だって、運動できる服装って、これしか持っていない。

 そもそも、まともに運動なんてしたことがない。


「女性用の練習着ってあったかな」


 言いながら首をひねっている。

 そして一つ息を吐くと、腰に手を当てて言った。


「まあいいや。ひとまず今日のところはそれで。ブーツは脱いで、布靴に履き替えよう」

「はっ、はいっ」


 私は慌ててメイドに用意してもらい、布靴に履き替える。


「初日だから、軽くね」

「おっ、お願いします!」


 私がガバッと頭を下げると、兄はにやりと笑った。


「いいねー。そういうの、大事だよ。特に殿下は厳しい」

「まあ」

「声を掛け合うのは積極的にするといいよ」


 そうなのか。

 確かに、以前兄の試合を観に行ったときは、皆、大声をあげていたりしていたな、と思い出す。


 「バッチコーイ」とか「ナイピー」とか、そんな言葉をよく聞いた。私にとっては謎の言葉なんだけれど、そういうのも必要なのかしら。

 あとはそういえば、手でキツネを作るみたいに、指を二本立てたりしていたけれど、ああいうのもしなければならないのかしら。


 きっと、覚えないといけないことがたくさんある。私の頭の中はパンクしてしまうのではないかしら。


「メモをとらないといけないわ」


 頭を抱えてそう言うと、兄はくつくつと喉の奥で笑ってから、言った。


「でも今回は、殿下の球を受ける、ということだから、殿下に声を掛けることになるね」

「えっ、ウォルター殿下に? そんな、畏れ多いわ」


 私が驚いてそう声をあげると、兄は首を横に振る。


「大丈夫。むしろ、言うべき。いい球が来たら、『いい球来てますよ』って」


 事もなげに兄は言う。

 けれど私から殿下にお声掛けするだなんて、そんな。

 でも、兄がそう言うのなら、間違いないんだろう。


「わ、わかりました」


 私は覚悟を決めて、こくりとうなずく。

 兄は私のその表情を見て、満足げに笑った。


「でもそれより、まずは予選を勝ち抜かないとね」

「はいっ」

「ひとまず、基礎体力がまったくなさそうだから、なんとかしないと」

「はい……」


 返す言葉もない。


「とりあえず、走ろう。朝と晩、屋敷の周りをぐるっと一周ね。慣れてきたら増やしても……」

「それだけでいいの?」


 もっと厳しいことを言われるかと思った私は面食らう。

 しかし兄は眉をひそめた。


「……庭の周りだよ」

「ええっ」


 それだと全然違う。

 ということは、門を出て、一周するということ?

 我がユーイング男爵家の庭は、無駄に広い。鶏を放し飼いにして卵を産ませている区画もあるし、四阿の前に池が広がっている庭園だってある。それを含めて、の外側?


「が、がんばります」

「じゃあまずはストレッチ。身体が固いとケガするから」


 そう言われ、兄の動きを真似して、グッグッと身体の各箇所を伸ばしていく。

 足を肩幅に開いて身体を横に倒していたときに、兄が感心したように言った。


「へえ、運動してない割に、身体は柔らかいな。やっぱり女の人のほうが柔らかいのかな」

「そうですか?」


 えへへ、と照れ笑いが洩れる。

 褒められた。嬉しい。もっとがんばろう。


「よし、じゃあ行こうか」


 兄が門に向かって私の前を走りだす。私に合わせたのか、ゆっくりとしたスピードだ。

 これくらいなら一周なんて大丈夫、と私は思ったのだが。


 あっという間に、私はへたりこんで動けなくなっていた。


「おっ……に……さま……待っ……」


 ハッハッ、と荒い息を吐きながら、私は門にすがりつく。

 そう、門だ。まだ門を出てすらいない。

 門を出て先を走っていた兄が、こちらに戻ってきて、私の傍で足踏みをしている。


「大丈夫か?」

「だ……じょぶ……じゃない……」


 荒い息は収まらない。心臓がばくばくと脈打っている。

 これ、基礎体力云々の前に、命を削られてしまうのでは。


 私を見下ろしていた兄が、ぽつりと言った。


「不安になってきた……」


 私もです。



*****


バッチコーイ・・・バッター、こっちに打ってこいよー、絶対捕ってアウトにしてやんぜ、の意。本心は「やめてこっちに打たないで!」のこともある。そんなときに限って飛んでくる。


ナイピー・・・ナイスピッチングの略。


手でキツネ・・・アウトカウントの確認。2アウトですよ、の意。人差し指と中指二本だと遠方の選手には見えにくいので、人差し指と小指を立てるそう。

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