第43話 望美姉ちゃん

 泣く望美姉ちゃんを見るのは初めてだった。子供のころから付き合いがあったが、泣いた顔は見たことがない。俺はどうすればいいのかわからず、ただ望美姉ちゃんを見つめていた。


「……もう何週間会ってないと思ってんのよ」


 望美姉ちゃんがぽつりと絞り出すように呟いた。


「繁忙期で忙しいのは知ってるわ。だから一か月近く会えなくても文句も言わずに我慢したわ。でも繁忙期終わって久々に会えると思ったら、また急に仕事が入ったってどういうことなの!」

「姉ちゃん!?」


 さっきまで悲壮と漂わせて泣いていた望美姉ちゃんは、突然言葉を荒げて喚き散らしだした。


「そうよ! 忙しいって言ってもL●NEなり電話なりできるでしょ! 電話は嫌いだからってかけても取ってくれないし、L●NEは基本既読スルーってどういうことなのよ! 信じらんない!!」


 フローリングの床に蹲ったまま、バシバシと床を殴りつける。あんなに力任せに殴っていたら痛くないのかと心配になるが、酔っ払うと痛覚がバカになると聞いたことあるので本人は案外痛くないのかもしれない。でも明日になったら真っ赤に腫れ上がって痛い痛いと喚き散らしそうだ。あとでシップを用意しておこう。


「……好きなのは私だけなのかなぁ」

「望美姉ちゃん……」


 喚いていたと思ったら今度はまた落ち込んでいる。これもまた酔っ払い特有のものか。わかってはいるが、淋しそうなひどく切ない呟きに心が締め付けられる。

 俺はまだ子供だし恋愛なんてよくわからない。でも、そんなにつらい思いしてまで恋愛ってするものだろうか? そんなこと言ったら重朝辺りに笑われるんだろうな。「お前はガキだな」って。

 望美姉ちゃんの柔らかな髪の毛に手を差し込み、さらりと撫でる。彼氏と間違えているのかすり寄ってくる様が可愛らしい。


「そんなにつらいならもう別れちゃえば?」


 聞こえるか聞こえないかの微妙な音声で言った。チキンな俺は聞こえないでほしいと願いながら。


「……」


 返事はない。聞こえなかったのだろうか。安堵からホッと息が漏れる。聞こえてほしくないなら最初から言わなければいいのになんて苦笑する。


「望美姉ちゃん?」


 あまりに静かなので心配になって顔を覗き込んだ。そこには安らかに寝息を立てて眠る望美姉ちゃんの姿があった。


「……寝てんのかよ」


 これだから酔っ払いは嫌いだ。言動に予測が出来ない。コントみたいな場面に知らずと笑いが漏れる。どうやら少し望美姉ちゃんに充てられて感傷的になっていたみたいだ。


「っで、どうすんだよ……これ」


 いくら夏とはいってもこのままにしておくわけにはいかないだろう。俺は重い体を引きずるようにして部屋に連れて行った。姉ちゃんの部屋は一階で良かったと心底思う。

 ひ弱な俺は息を切らせながら、やっとのことで望美姉ちゃんをベットへと寝かせた。いまのでどっと疲れたので、俺もさっさと寝てしまおう。

 そそくさと部屋を後にしようとした時、クンと袖がひかれる。自身の手を目で追うと、望美姉ちゃん俺の袖をつかんでいた。


「俺もう戻るからはなしてよー」


 眠る望美姉ちゃんに文句を言いながら、握り込む手をそっと外していく。不意に呻くような声がした。起きたのだろうか。なにやらむにゃむにゃ呟いていたので顔を寄せる。


「……通」


 かすれた声で、呟かれる名前。それが彼女の恋人の名前だと認識するより先に、俺は温かく柔らかいものに包まれた。いったい何があったのかわからぬまま目を白黒させる。

 酒臭さの中に混じった、甘い香り。これはいつも望美姉ちゃんがつけている香水の香りだ。そう思ったとき俺は望美姉ちゃんに抱きしめられているのだとようやく理解した。


「うわ――!!」


 突然のことに脳がバグり、状況をうまく処理できない俺はとにかくこの柔らかい牢獄から逃げ出さないと、という一心で望美姉ちゃんを押しのけると、叫びながら部屋を後にした。

 今の叫び声で望美姉ちゃんが起きたかもしれないとか、ちゃんと布団かけただろうかとか思いつくも、もうあの部屋に戻る気にはなれない。


「……柔らかかった」


 今更に抱きしめられた感触を思い出し、俺は赤くなる頬を押さえながら一人その場に蹲った。


 ◆


 翌朝昼頃、二日酔いで痛む頭を抱えながら望美姉ちゃんがのろのろと部屋から出てきた。


「ねえ忠世、昨日私なんかしなかった?」


 どうやら昨日の記憶がさっぱりないらしい。どうやって家まで帰ってきたのかすら覚えてないという。

 覚えてなかったことに少し安心すると、俺は意地悪く笑って


「さあ?」


 とだけ意味深に答えた。


「え? 何それ! 私何かしたの!? ねえ!」


 頭痛も忘れ俺の肩につかみかかった時、望美姉ちゃんのスマホが音を立てた。


「あ! 通からだ! 私、出かけてくる!」


 まだ頭が痛むのか時々眉間に皺を寄せながら、バタバタと洗面所へと走っていく。その表情はとても嬉しそうで、きっと心配いらないだろう。

 冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターのペットボトルを取り出すと、痛み止めとシップと共にダイニングのテーブルの上にわかりやすく置いて、俺はそのまま自室へと戻った。

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誰にでも無視をする匹田さんにはそれなりの理由があるらしい 都志光利光 @toshi_mitsu

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