第8話 ポチ袋

 翌朝、月曜の早朝。俺はいつもより二十分ほど早くに家を出た。親には『クラス役員の仕事』と言い訳して。実際はクラス役員になどなってはいないのだけれど。

 そんな俺におふくろは疑いもせずにおにぎりを三つこしらえてくれた。朝ごはんだ。ちなみに昼飯は別に弁当がある。ありがたいことだ。

 ホームルームは八時二十分から。今は七時四十分だ。どう考えても早く着すぎた。まだ誰もきていない教室で俺はおにぎりを頬張る。二つ目の中身は梅干しだ。ちなみに一つ目は高菜だった。

 別に匹田さんは来るのが早いわけではない。いつも八時前後に来ている。バス通学なので、バスの遅延などがない限りいつも同じだいたい時間だ。匹田さんが来るまで暇だなあ。


「あれ、忠世どうしたんだ。早いな」


 三つ目のおにぎりに手を付けた時、重朝が教室に入って来た。いつもならサッカー部の朝練でもう少し遅くに教室に入ってくるが、この時間に来るということは今日はどうやら朝練がなかったようだ。


「……匹田さんと話してみようと思って」


 口の中のおにぎりをゆっくり飲み込んでから答える。三つめはたらこだった。

 俺の返答に重朝は眉を寄せ少し難しい顔をした。


「お前が匹田さんを気に掛けるのはわかるけど、あんまり肩入れしすぎない方がいいんじゃないのか?」


 重朝が俺のことを考えて言っているのは判っている。でも今はそれが少し煩わしい。


「じゃあ、このまま匹田さんが一人ぼっちになるのを放置しとけって?」

「……そうじゃないけど」


 歯切れ悪く言う重朝は、頬をかきながら目を逸らす。


「いやそういうことだろ」

「でも、匹田さんも自ら好んで一人になりたいんじゃないか? じゃなきゃあんな態度取らないって普通」

「それ本人に聞いたのか?」

「え、いや。聞いたことないけど……」

「なら決めつけるなよ。昨日の匹田さん見ただろ? 沖田と楽しそうに話している匹田さん見て、もしかして本当の彼女は冷たい人間でもクールなキャラでもツンデレでもないんじゃないかって思ったんだ」


 勝手に他人に想像されて決めつけられてハブられるのは誰だって嫌だ。匹田さんのあんな泣き顔見てしまったら何とかできないかと思ってしまうのだ。

 あの日俺が恋に落ちた、匹田さんのこぼれるような笑顔をも一度見たかった。そして、出来ることなら俺に向けてほしい。


「ほんと、お前は困ったやつだな」

 重朝が困ったような、でもどこか嬉しそうな表情で言った。俺はその表情の意図が掴めず一瞬たじろぐ。

「これ、渡しといてくれないか?」


 手渡されたのは水色のポチ袋。ポチ袋なんて正月しか見たことない。しかし今は正月ではないし、重朝が俺にお年玉をくれる訳もない。それの中身が何なのかわからず重朝を見やる。


「昨日のお釣り。匹田さん多めに出したから」

「ああ、お釣りね」


 そう言えば昨日、匹田さんと別れた後に店に戻った際に匹田さんのお釣りどうするかとか言っていたような気がする。あの時はそれどころではなかったから忘れていた。


「わかった、返しとく」


 水色のポチ袋を受け取り胸ポケットにしまった。


「来たぞ」


 重朝が顎で教室の扉をさした。そこには俺が待っていた匹田さんが入ってくるところだった。その表情はいつもと比べて些か暗いような気がする。


「頑張ってこい」


 背中をはたかれ送り出される。衝撃によろめきながらも俺は扉に向かって足を踏み出した。


「匹田さん、話があるんだけどちょっといいかな?」


 俺の姿を視界にとめた瞬間、わかりやすくびくりと体を跳ねさせる匹田さん。思いっきり怯えられている。


「すぐ終わるから」


 匹田さんは無言で頷いた。


 ◆


 使われていない空き教室に俺は匹田さんを連れてきた。

 匹田さんは出入り口をちらちらと見ながら、組んだ手は痕が出来るほどきつく握られている。怖がらせるつもりはなかったのだけれど、あんなことがあった次の日に一人別室に呼び出すとか不安になるのも仕方ないだろう。


「これ、昨日のお釣り」


 とりあえず先に渡しておこうとポチ袋を匹田さんに手渡す。


「……ありがとう」


 ホッとしたような表情で俺からポチ袋を受け取る。


「……もう戻っていいかな?」


 ポチ袋を受け取ったにもかかわらず、動かない俺を疑問に思ったのかおずおずと控えめに聞いてきた。居心地の悪さに今すぐに教室に戻りたいのだろう。でも今戻してあげることはできない。


「まって。匹田さんに聞きたいことがあるんだ」


 むしろこれからが本題だ。


「……なに?」


 それは不満を含んだものではなく、ただ純粋な疑問からくる問いに聞こえた。


「匹田さんはなんで無視するの?」


 それを聞いた瞬間、匹田さんの顔が歪んだ。痛みをこらえるような表情。なんでそんな顔をするのかわからないけれど、こんな質問はするべきではなかったということだけはわかった。また俺は間違えたのかもしれない。


「……ごめん、私また無視してた?」

「え?」


 予想外の返答に言葉が詰まる。匹田さんは自らの意志で無視していたわけではない、ということだろうか?


「私、少し耳が悪いんだ……」


 床を見つめつつ呟く。


「聞こえないなら、何回も聞き返せばいいって思ってるでしょ? わかってるんだけど、何回も聞き返したら怒ったり呆れる人いるし、自分に話しかけてると思って聞き返したら自分じゃなくて、「自意識過剰」って言われたり。毎回そんな感じで……、億劫になっちゃって」


 言い訳するように匹田さんは言葉を紡ぐ。俺はただ黙ってそれを聞いていた。


「病院も行ったけど異常なしだって言われて……」

「……いつも聞こえないって訳じゃないよね? 今も俺の声は聞こえているみたいだし」


 それとも読唇術で言ってることを読んでいるとかだったりするのだろうか。


「ここは静かだから、印牧君の声はよく聞こえるよ」


 なるほど、合点がいった。バス停で会ったときは確か周囲は人がほとんどおらず、静かだった。逆に教室は常に人がたくさんいて、騒がしい。

 でもそうなると、ボウリング場の時はどうなのだろうか? あそこは人も多く音楽が大音量で流れていたが、俺は匹田さんに無視はされていないはずだ。


「昨日のボウリング場は? あそこうるさかったけど、無視はされなかったと思うんだけど」

「ボウリング場はみんなが聞き取りにくいみたいだし、うるさいと感じてるの私だけじゃないみたいだから聞き返しても大丈夫かなと思って聞き返したの」


 今思えば、そうだった。会場のうるささに皆何度か聞き取れなかったりして聞き返していた。


「もういっていいかな? そろそろ先生来るだろうし」


 匹田さんの言葉に壁にかかっている時計を見る。八時十七分。確かにそろそろ担任が来る時間だ。でもこのままではなにも解決出来ていないのではないだろうか。それじゃ意味がない。いき急いだ俺はふと思いついたことを推敲もせずにそのまま口にした。


「まって。匹田さんが聞こえないっていうなら俺が代わりに聞くよ。だから、聞こえなかったら俺に言ったらいい」


 いい考えだと思った。これなら匹田さんが無視することもなくなるし、匹田さんが耳が悪いってことが周知出来て皆に誤解されないのではないかと思った。しかし匹田さんの表情を見て、俺の提案は失敗だと気づいた。

 匹田さんは眉間に皺をよせ苦い顔をして深くため息をついた。そして見下すような視線で俺を見る。そんな冷徹な匹田さんを見るのは初めてで俺はたじろぐ。


「ただのクラスメイトの印牧君にそこまでしてもらう義理はないよ」


 ピシャリと言い切ると、匹田さんは空き教室を出て行った。俺は呼び止めることも出来ず、立ち去る匹田さんの背中を見つめていた。

 俺はまた間違えてしまったようだ。

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