肩こりと太陽
由加子はデスクの下で靴を脱ぎ、モコモコした温かなスリッパに履き替えていた。手指にはマグカップがあった。今さら喫煙室に行って、わざわざ寒い思いをする気にはなれなかった。なら、仕事に入るしかないかと、キーボードに手を伸ばす。両肩がひどく凝っていることに気づいた。外の寒さに縮こまっていたせいか。首の付け根を押さえてみると、やはりガチガチになっていた。
「肩こりですか」
三太郎が目ざとく、それを察知した。
「どうしてわかるの」
「そんな顔してるから」
そう答えて立ち上がり、由加子の傍へやって来る。
「揉みますよ。柚子茶、の、お返しですよ」
「え?」
予期せぬ行動に、戸惑いを隠せない。
「ど、どうぞ……?」
手を膝の上で組み、やや俯く。美容室でしてもらうのと違い、鏡が無い。互いの顔が見えない。動く気配さえ無いままに、彼の手が肩――ではなく、それをさらに越え、由加子のスーツのボタンへ伸びた。
「なっ?!」
驚くのも当然だが、伸びた手もまた驚くほどにたやすくボタンを外し、襟に手を掛け、そして脱がそうと浮かせる。指先が由加子の体に、少し、触れた。
「ちょ、ちょっと?」
「このほうが、しっかり揉めますよね。あ、袖、抜いてください」
さも当然のごとく平然とした口調に、なぜだかそのまま従ってしまう。脱いだスーツはそのまま、椅子の背もたれに掛けられた。そして何の間も置かず、三太郎が両手を肩に乗せた。
「……っ!」
瞬間、力を込められ、由加子は思わず体を反らせた。
「ああ、すいません。強かったですか」
「ううん、大丈夫……」
三太郎が詫びたが、彼の手は由加子をしかと掴んだままであった。そして由加子は、彼の力の強さだけでなく、その手の大きさ、鎖骨を越えて届く男の指、そこから入ってくる体温にもまた、驚いた。
次いで彼は、親指を回すように、半ば撫でるように、由加子の薄い肩を圧迫し出す。初めの直線的な動きは控えていた。それでも充分な強さがあった。
「凝ってますね」
「も、もう少しゆっくり」
「ああ、すいません」
運動の周期が早くては、心臓までもが急き立てられるようで、体に力が入ってしまう。大丈夫ではなかった。由加子は堪らず、そう願った。注文通りに速度が弛み、やっと落ち着く余裕ができた。男の熱が、甘さに変わった。由加子はこっそり、目を閉じた。気を抜きすぎて声を漏らしそうになり、そんな自分をひそかに嗤った。
「一場君って、下の名前、何て言うんだっけ」
何となしに、そんなことを訊いていた。
「三太郎です。自己紹介の時、言いましたよね」
「三男なの?」
「いえ、二番目です。姉がいます」
「ふうん。三太郎くん」
サン太郎、などと心の内で言い換えてみる。体はすっかり、温まっていた。
「先輩は、由加子、ですよね」
「うん?」
「そう呼んでもいいですか?」
「な、なに……?」
急に何を、と驚き振り返ったその時、同僚の社員が一人、由加子たちのブースに入ってきた。
「戻りましたぁー」
慌てて前を向く。三太郎は「あ、お疲れ様です」と至って落ち着いた調子で言ってのけ、さり気なく由加子の肩から椅子の背もたれへと両手を移した。
「お、お疲れ様……」
「――先輩、これ、次の特集ですよね。先輩がやるんですか」
PCのモニターを指差し、仕事をしていたふりをする。
「んん、そう、そうだけど」
同僚社員は、二人を特に気にかけるでもなく、自分のデスクに着き、何やらゴソゴソし始めた。
「運命の恋特集……なんか、意味わかんないですね。先輩が考えたんですか」
「ち、違うって。これはね、甘利さんが勝手に立てて、私に投げてきて……」
「ふうん、そうなんですか」
何、ふうん、って――と由加子は鼻を鳴らした。風邪を引いたわけでは、ない。
午後七時。由加子と三太郎、ほか数名の社員は、まだ残業中であった。
『由加子さん。俺、腹減りました。』
突然、由加子のPCにメッセージが届いた。社内のメッセンジャーを通してだった。ちらとその送り主を見るが、こちらを気にする様子は微塵も無い。
何なの、と半ば呆れ、意識を仕事に戻す――
『温かいもん食いにいきませんか。鍋。うまい店があるんです。』
再び、メッセージが届いた。
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