二月十九日

北風と柚子茶

 春の兆しを感じさせる眩い日差しのわりに、ひるを過ぎても気温の上がらなかった午後三時、由加子は、取材先から会社へ戻る途上の路上を歩いていた。乾燥した冷風が、手袋を突き抜け指先を苛んでいた。足元はまるで、素足で歩いているかのような感覚だった。朝の陽光に騙された。由加子の部屋は東向きだった。

 ――就活生じゃあ、あるまいし……。

 自分の歩く方角が向かい風なことを呪い、目を細め、首をすくめる。あまり人に見られたくない姿だ。きっと、ひどい顔をしている。アンフェアな勝負を北風にふっかけた太陽まで、恨めしく思った。

「ああ、先輩。今、戻りですか。おれもです」

 ふいに背後から、声を掛けられた。三太郎だった。いかにも暖かそうなマフラーを首に巻いていた。

「先輩、ずいぶん薄着ですね。寒くないですか」

「…………寒くないわけないじゃない」

 こんなに背中を丸めて、縮こまって歩いているというのに。脳天気とはこのことか。と、由加子は三太郎の顔も見ずに答え、内心呟いた。俯き加減の視線は地面に落ちる。三太郎はというと、スーツの上にばっちり厚手のコートを着ており、ふかふかの毛糸の手袋をしていた。靴下も、毛糸編みの厚手のものを履いているに違いない、と由加子は勝手に決めつけた。

「今日寒いですよね」

「知ってるって……」

「え、なんですか? ――あ、会社着きましたよ」

「見りゃわかるって……」

「え、なんですか?」

 それほど間口の広くないエントランスには暖房も入っていないが、風をしのげるだけ由加子にはありがたかった。三太郎を振り切るくらいの勢いをもって、由加子は階段を上っていった。一機しかないエレベーターは上階へと昇る最中で、降りてくるのを待つ余裕は彼女には無かった。一刻も早くオフィスに入って温まりたかった。


 さすがにオフィス内は暖房が効いて暖かだった。しかし由加子の冷え切った体には、もうひと押し必要だった。コートを脱いでロッカーに掛け、鞄を置くと、由加子はまず給湯室へ、凍えきった足を向けた。三太郎は喫煙室にでも行ったのか、姿が消えていた。年季の入ったガス台で、やかんに湯を沸かす。自前のマグカップを用意し、ひとつ意を決して、冷蔵庫から何やら大きめの瓶詰めを取り出した。ラベルに大きく、マーカーペンで「渋」と書いてあった。

「それ、何ですか」

 三太郎が後ろに立っていた。

「たばこ吸いに行ったんじゃなかったの?」

「少しだけ。寒かったんで」

「……これ、開けてくれる?」

 瓶を差し出す。由加子のかじかんだ指では、蓋がなかなか開かなかった。

「ああ、はい……柚子茶、ですか。柚子茶って何ですか」

 三太郎は難なく蓋を開け、ラベルをしげしげと眺めてそう訊ねた。

「ありがと。一場君も、飲む?」

 ちょうど湯が沸いたところだった。三太郎には来客用の湯呑みを使い、ティースプーンで混ぜて二杯の柚子茶ができた。それぞれのデスクに着き、ひと息つく。パーテーションで仕切られた由加子らのブースには、二人以外は誰もいなかった。






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