満たす煙り

 壁の時計は十三時五十五分を指していた。

「君は何か食べないの?」

「いや、べつに。腹、減ってないですし」

「そう」

 若干手持ち無沙汰な三太郎に対し、由加子は淀みなく次の動作へ移る。鞄を開け、スマホの画面をちらと確かめ、続いて煙草を取り出した。

「へえ、カールトンですか。珍しいですね」

 喫煙歴の長いのはもちろんのこと、趣味としても煙草に造詣の深い三太郎だが、カールトン・メンソール・100'sなぞ、吸っている人間を見たことは無かった。

「そう?」

「ええ」

 売られているのを見かけることはあったが、自分で買ったことは無かった。

「試してみる?」

「えっ……いいんですか?」

「そんな顔されちゃあね」

「そんな顔してましたか」

 由加子は何故だか愉しげに笑い、パッケージを差し出した。100ミリサイズのタバコには珍しいソフトパックは、封緘ふうかん紙を破って全開だった。意外と豪快な一面を見せられ、しかもそこから一本抜き取るよう促されるとは。彼女の一部に直接触れる、そんな錯覚に三太郎は見舞われた。男の指に、それはかなり細く感じられた。

「あ、じゃあ、これ――」

 手を収めた由加子に、三太郎は半ば衝動的に自分の煙草を突き出した。

「きついかもしれないけど……どうです?」

 煙草を吸い始めたばかりの十代のガキじゃないんだから、と内心苦笑したが、同時に、緊張をも覚えていた。片手のまま蓋を開けてみせたそれは、パーラメントだった。由加子は思案げな顔をわずかに見せたが、ついにその一本をつまみ取った。

「これが君のお勧めなの?」

「え、ええ……今は」

 めつすがめつそれを眺め、軽く咥えると、彼女はひとつひとつ間を置くような動作で火を点けた。三太郎もそれに同調した。

 由加子のカールトンは、柔らかな味がした。ミントの着香は、ごくごく控えめだった。使われている煙草葉の、質の良さを感じた。ミントが汗なら、煙りはその下の薄くきめ細かな肌の感触だった。強く吸えば容易に散ってしまいそうで、三太郎は慎重になった。

 彼女はどうかと見れば、煙りを含み、飲み込むや、その美しい顔をしかめる。三太郎はそれを予期していた。パーラメントの低い位置から立ち上るモノトーンの波は、硬く締まった輪郭を陰に忍ばせ、喉から腹へと、撫でつけるように、押す。由加子は少し背中を丸め、俯いた。

 しかし、違うものを受け入れる苦悶は直ちに、煙りのもたらす快楽に取って代わられる。アップルシナモンロールと紅茶では補いきれない空隙を、穴を、それは確実に埋め、そして押し拡げる。由加子が普段感じているものの、倍以上の量が彼女に入り込み、全身を巡り、脳に働きかける。目を閉じる彼女の内部で反応が進行するのを、三太郎はつぶさに観察した。彼には、その全てが、見えていた。

「…………きついね」

 いくぶん弛んだ視線を三太郎に投げて、由加子は言葉を洩らした。

「すみません」

 満たされた悦びは、互いの口元をも弛めていた。

 ぬるめのコーヒーを含んでみると、それは由加子の煙りには少しばかり重い気がした。彼女も紅茶を飲んでいる。軽すぎはしないだろうか、と三太郎はその様子を窺った。

 お互い、特に何を言うでもなく、しばし。時間が流れた。ウェイターの青年が、空いたカップと皿を下げに来た。三太郎は、水を二つ頼んだ。やがてそれが運ばれてくると、由加子が言った。

「これでなんにも無かったことになるね」

 仕事はこれからだったな、と、三太郎はぼんやり思い出した。時計は十四時二十分を指していた。


 それからすぐ、店にが現れた。由加子がいち早くそれに気づき、腰を浮かせた。

「いやあ。すいませんね、遅くなっちゃいまして(笑)。あ。おニィちゃん、黒霧(笑)! あるわけないか(笑) じゃー……ジンライム! え? 無い? 無いの(笑) そういう店じゃないって? そうなのww」

 出来事の余韻は一旦胸の奥にしまい込み、三太郎は平生を装った。






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