アップルシナモンロール
「一場君、どうする?」
「え、どうするったって」
「会社戻る?」
「いや……うーん」
三太郎には、それは面倒な気がした。
「だよね、面倒だよね。いいよね、ここでずっといても」
「いいんですかね」
由加子の急に気分の上がった様子に、三太郎は少々面食らった。
「いいって。じゃあ、仕事の話だけ先に済ませときましょ。あのね、今日の取材はね――」
中途採用で入ってきたばかりの三太郎に仕事を教えるために、由加子はわざわざ三十分という時間を用意していたことになる。そしてそれが今、さらに三十分延びた。それだけの間、三太郎はこの美人をひとり占めだ。先生に感謝せねばなるまい。
由加子は三太郎にとって先輩ではあるが、歳は彼とそう変わらないか、あるいは下にも見えた。実際いくつなのかは訊いてはいない。そんな由加子の特別講習は、十五分とかからずに終わった。タイミングを見計らったかのように、紅茶とコーヒーと、菓子パンと灰皿が来る。
「けっこう遅くないですか?」
「ここはそんな店なの」
「ふうん……」
回転の早い店ではない、ということか、と、先ほどの縦書きのメニューを改めて眺めると、三太郎の目に「九五〇円」の字が飛び込んだ。
「ブレンドが九百五十円?」
「ミルクティーもね」
「すごい値段しますね……」
「ここはそんな店なの」
由加子は繰り返しそう言い、唇をすぼめ、カップに注がれた紅茶に軽く触れさせた。その形の変化を三太郎は見逃さなかった。
「……だからこんな空いてるんですね」
「まあね」
「取材にはもってこい、って感じですか」
「…………」
返事をすることをやめ、皿の菓子パンを手に取る。男の握りこぶし大の丸く膨らんだ渦巻きに、白いアイシングがくるくると回しかけてあった。
「それ、何て言いましたっけ。アップル……」
「アップルシナモンロール」
「うまいんですか」
「…………」
ちらと三太郎を睨むも、すぐにどこか遠くへ目をやり、由加子はひと口、それを含んだ。美しい額の上で寄せた眉根が、少し弛むのが見えた。しかし、顔は表情を殺している。邪魔をするなと書いてある。それでも、三太郎は訊かずにはいられない。
「相当おいしいんですね」
彼女は、メニューなど一切見ずにオーダーしていた。はなから決めていた、いや、決まっていた。ミルクティーとアップルシナモンロール、と。じろりと三太郎を見るも、その目の光はすでに和らいでいた。
「うん」
傍らにあったメニューブックを開いてみる。アップルシナモンロール、六百円、とあった。
「いつも頼んでるんですね、それ」
「ん」
二口目にかぶりつき、口元に手を当てつつ由加子は肯定した。
「甘いんですか」
「ん」
返事はするが、目はまたどこか遠くを見ていた。いや、何も見てはいない。彼女はアップルシナモンロールに夢中だった。あらかじめ用意した三十分のうち、十五分は講習だったが、あとの十五分はこのアップルシナモンロールのためだったに違いない――三太郎は、そう確信した。
「シナモンがね、格別なの」
そう聞けば、鼻にもシナモンの香りが漂ってくる。彼女の息に乗って届いたか。
「いつも、ってわけじゃないけど――というかこんなとこ、いつもは来れないよね」
取材でこの店を使う時がチャンスなのだと、彼女は秘密を打ち明けた。領収書が切れるからだと言う。
「んふふ……おいしい」
クールビューティーが見せる、いじらしさ。嫉妬めいた何かを、この六百円の菓子パンに対し、三太郎は覚えた。
「ミルク、入れないんですか」
「ん、いらない。私、使わないの。いる?」
「いえ……」
ストレートのままの紅茶を口に運ぶのに合わせて、三太郎は自分のカップを啜った。紅茶に意識があったせいで、コーヒーの味に驚いてしまった。
じっとりとした三太郎の視線も構わず、由加子はアップルシナモンロールと戯れるようにして、それを平らげた。満足感が、ありありと顔に出ていた。甘い物の苦手な三太郎だったが、甘味のもたらす幸福感は理解していた。
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