紅の主日

若菜紫

第1話 楽園

マラナタ マラナタ 主の御国が来ますように

マラナタ マラナタ 主の御国が来ますように

(カトリック典礼聖歌集325番「マラナタ」より)


桜並木が立ち並ぶ閑静な住宅街に、清冽な歌声が流れる。やがてその歌声は、壮麗荘厳なパイプオルガンの調べを連れて、麗らかに澄んだ春の空を震わせる。緑がかった青い鐘楼の下、色鮮やかなステンドグラスに刻まれた殉教者たちの姿は、痛ましいというより華麗さが際立ち、聖堂の内部へと差し込む四月の陽は、江戸時代初期に戦乱を逃れて島原地方から伝えられたという十字架のキリスト像を光に影に彩っていた。今日は、伝統ある聖ヨハネ教会附属幼稚園で、復活祭の行事が行われる日である。

代表に選ばれた園児たちが、担任に連れられて祭壇へと進み出た。この日のために考え、練習してきた共同祈願を読み上げる。精一杯声を張り上げ、たどたどしくも可愛らしい様子に、保護者席の母親たちは目を細め、ビデオカメラを手に、一心にわが子の姿を追っていた。

世界中の人のために、家族のために、友達のために、子どもたちは祈り、司祭や修道女、会衆が続いて「主よ、私たちの祈りを聞き入れて下さい。」と唱える。儀式は粛々と進んでいった。しかし、最後の子が祈り始めた時、教会にざわめきが広がった。

「未来の子どもたちと自分のために祈ります。」

端正な顔立ちの、その子どもは続けた。

「未来の子どもたちが幸せでありますよう、また、その子たちのために僕たちが未来を築いていけますよう、尽くす力をお与えください。」

 練習してきたものとは違っているのだろう。およそ五歳の子どもらしからぬ文章に、保護者席にはきまずさが伝わっていった。そんな中、問題の園児、島聖一の育ての親である修道院長のシスターマルタだけは落ち着き、いつものように穏やかな優しい笑みを湛えている。桜田絢音は二人の様子を遠くから見つめ、聖一と出会ってからの日々を思い出していた。


絢音が母に手を引かれて、初めて聖ヨハネ教会へと足を踏み入れたのは、今から僅か一年余り前のことであった。東京都二十三区内でも激戦区と言われるだけあって、幼稚園入園を視野に入れている母親たちは、早ければ子どもが物心つくかつかないかのうちに、幼児教室へと足繁く通う。子どもを通わせるのではなく、まずは文字通り自分たちが通うのだ。そこで知り合った、同学年となる子を持つ母親同士が連絡先を交換し、教室の帰りに子どもたちを遊ばせるべく、公園や児童館、デパートのキッズスペースに立ち寄る。そして、子どもたちに目を配りながら、自分たちは世間話に興じるのだ。話題は子育てや、ともすると夫婦関係の悩みにまで及び、お互いを「ちゃん」付けで呼び合う様は、まるで女子学生に戻ったような賑やかさである。しかし、あくまでも目的は、希望する幼稚園にわが子を入れるための情報を得ることなのだ。それとは気づかれぬよう、さりげなくお互いの様子を探りながら、核心に触れていくのである。

 中でも、聖ヨハネ教会附属幼稚園は、競争率が高いことで有名であった。内部受験をしなければならないとは言え、一応系列の小学校はついている。もう少し難関の小学校を受ける者もいるが、そのような親子にとっても、非常に恵まれた環境にあるのがこの幼稚園なのだ。

 まず、駐車場が広い。降園後、小学校受験のための習い事に急ぎたい母親にとっては、車で送迎できる環境というのが、まず幼稚園に求める条件なのである。

 次に、修道女や司祭などの教会関係者と交流する機会が頻繁に得られるという点が挙げられる。同じ系列の修道会が運営する小学校への入学を希望する場合は言うまでもないが、中学校受験でミッションスクールを受けたい場合にも、受験情報や入学後のことを考えると心強いものがある。

 他にも豊富な遊具や広大な園庭、頻繁に行われる幼稚園行事や母の会主催のサークル活動などは、多くの親子にとって魅力あるものであった。

 このような人気のある幼稚園に、なぜ年少組から入らなかったのかと言うと、絢音の引っ込み思案な性格が理由であるとしか言いようがない。同じ年代の子と遊ばないわけではないのだが、集団の中に入ると気後れしてしまうのだ。そのような性格が災いし、三歳になった時から母がせっかく通わせてくれた幼児教室も中退してしまった。しかし思えば、聖一との出会いもあの時だったのだと思い出す。

 

 その日は、都内でも滅多にないほどの猛暑日であった。蝉の声が天上から降り注ぎ、どこまで伸びているのかと思われるような木々は、容赦なく光の棘を降らせる。おそるおそる見上げると泣き腫らした目が痛み、絢音はまた顔を伏せた。

 親子遠足を心待ちにしていたであろう子どもたちが、母親や友達と輪を作ってレジャーシートに座り、華やかに詰められた弁当箱の中身を見ては歓声を上げている。賑やかさは、広場から少し離れたこの場所にも伝わってくるようだが、この大木の陰に隠れてさえいれば見つかることもないだろう。もう、あんな場所に戻るのはご免だ。

 事の発端は、遠足のプログラムに組み込まれた写生の時間だった。絢音の通っていた幼児教室では、様々な行事が催される。楽しむだけではなく、幼稚園受験で試される協調性や社会性を培うための「お勉強」としての側面を兼ね備えるものであった。

 しかし、絢音の母はいつも通りに振る舞い、絢音も疑うことなく遠足を楽しんでいたものだ。自分の描いた絵を、担当の教師に見られるまでは。

 だから、遠足の絵を描きましょう、というのが自分への注意であると分かるまでには時間がかかった。自分にとっての遠足というのは、この空の色だった。梅雨が明けて間もない頃にようやく見ることのできる、吸い込まれるように深く、きらきらと白い光に満ち溢れた、この空の色だった。これが遠足の絵ではないと言うのか。

 周りを見回すと、どの親子も気まずそうに目をそらす。恐る恐る仲良しの藤岡真里が描いた一枚を覗き込むと、自分と友達らしき子どもが二、三人、母親らしき女性が数人、そして弁当やバスが、子どもらしいながらもはっきりとした輪郭で表現されていた。

 それから後のことを、絢音は覚えていない。気づいたらこの大木の陰にしゃがみこんでいた。日は高くなってきたが、空腹は感じない。しゃくりあげると、涙が喉に流れ込んで塩辛く、鼻の奥が痛んだ。

「どうしましたか。」

 突然かけられた声にふと顔を上げると、一人の女性が男の子の手を引いて立っていた。白いベールと十字架を身に着け、夏だというのに長袖の黒い、ゆったりとしたワンピースに身を包んでいる。ベールから覗く目元には皺が深く刻まれていたが、化粧気の全くないながらも彫りの深い顔立ちは神々しさすら感じさせた。男の子は絢音と同じくらいか、少し年上に見える。きちんとした襟付きの白いシャツと半ズボンに身を包み、考え深そうな目をしていた。

 絢音は黙ったまま、目でみんなのいる広場の方を示した。女性は微笑すると黙ったままゆっくりと頷き、絢音たちから一歩下がった。

 絢音はその子と一緒に、長いこと遊んだ。男の子は物静かだったが、決して暗いわけではない。絢音が笑うと、応えるようにしてその子も笑う。しかし、自分がこんなにも心の底から笑ったのはあの時が初めてだった。男の子は、これまで一緒に遊んだどの友達よりも走るのが早く、元気だった。石段やでこぼこした木の根、ベンチなどを逃げ場所に見立てて鬼ごっこをするうち、絢音は自分が最初、何をしに来ていたのかさえも忘れていたのである。だから、探しに来た母に叱られた時も、泣くわけでもなく不思議な気持ちで見上げたものだった。

 母や教師が、女性に深々と頭を下げる。彼女に連れられて男の子の姿が遠ざかっていく時、初めて涙が流れた。陽はすでに傾き、蝉時雨だけが空しく降り注いでいた。


 それから一年余りが経ち、聖ヨハネ教会附属幼稚園の入園面接で呼ばれた時、絢音はやはり泣いた。母と離れて保育室に入ることが、どうしてもできなかったのだ。慌てて宥めようとする母と、手足をばたつかせて泣き叫ぶ絢音の前に現れたのは、何とあの遠足の日に出会った女性だったのである。

 絢音は彼女に導かれるまま、保育室へと入っていった。

「ここでお友達と遊びましょうね、先生たち見ているからね。」

 そう言われて、玩具の前に座った絢音であったが、隣を見て息を呑む。公園で遊んだあの男の子だった。その子は、優しく笑いかけて絢音に積み木を渡す。

 シスターマルタ、そして聖一との再会、絢音にとっては奇跡のような再会であった。


「あやちゃん、おはよう。早く行こ。」

 門の側で絢音の姿を見つけた真里が、元気よく声をかける。真里に手を引っ張られるように、玄関へと急ぐ小西彰の姿。長すぎる弁当鞄の持ち手を振り回しそうになるわが子の姿に、彰の母が苦笑しながら紐を直してやっていた。笑顔で手を振る母親たち。絢音と真里の母もにこやかに、玄関の端で話し込んでいた。四月から、幾度となく繰り返された光景である。

 何とか落ち着きを取り戻して面接を受けたことが幸いしたのか、絢音は聖ヨハネ教会附属幼稚園に無事合格することができた。そして、入園してからこれまでの間、少しずつ集団生活に慣れていった。同じ幼児教室に通っていた真里が一年先に入園しており、同じ組になったことも大きな要因と言える。年中組からの入園児は、ともすると転入生のようなイメージで見られ、幼稚園生活に溶け込むのは親子共々困難であることも珍しくない。しかし幸運なことに、真里だけではなく聖一も同じ組におり、彰も交えて四人で毎日のように遊んでいたため、疎外感は感じなかった。彰の家は開業医であり、父は聖ヨハネ教会附属幼稚園と小学校で校医を引き受けている。そそっかしいながらも父に似た愛嬌のある明るい性格の彰は、はきはきして大人びた真里とよく気が合うようであった。

「良い子の皆さん、時間になりました。お友達は保育室に入りましょう。」

 放送が流れ、子どもたちは上履きに履き替えるのももどかしく、階段を駆け上がっていく。今となっては聞き慣れた放送であるが、入園したての頃は母と離れるのが淋しく、真里に誘われてようやく上がったものだった。

 しかし、その日は母も一緒だった。保育参観が行われる日なのである。参観が始まるまではまだ時間があるものの、何人かはすでに母親の手を引き、階段を上がっていく。担任と挨拶を交わし、その日の準備をしながらも絢音は、後ろの保護者席のほうを向いてばかりいた。母とお揃いの、タータンチェックのリボンを髪に結んでもらっているせいか、気持ちがいつもよりも華やいでいる。振り返ると、母もいつものように手を振り返してくれた。いつもと異なり、薄化粧をした顔が明るく輝いて見えた。

やがて、母親たちが一人、二人と、あるいは数人で賑やかに連れ立って入ってきた。皆、紺や白を基調とした服装をしているのだが、母の会の役員を務める彰の母の華やかさは際立っていた。派手さはないものの、遠目にも仕立ての良さが分かるジャケットの裾と袖口には、甘いフリルがついている。カールさせた艶のある肩までの黒髪は、笑う度に軽やかに揺れ、上を向いた長い睫毛がしばたいた。真里の母が、一生懸命に何か話しかけている。絢音の母も、傍らで微笑みながら相槌を打っていた。

参観の内容は、人形劇の発表だった。はじめに、班ごとに発表する劇の台本が配られ、それぞれが分担して必要な指人形を作る。その後劇を発表し、お弁当前のカリキュラムは終わる。絢音と彰、真里と聖一がそれぞれ同じ班になった。絢音は子山羊の人形を作った。本の挿絵を見よう見まねで描き、何とか時間内に仕上げることができた。彰の狼はいかにも男の子らしく、可愛らしい中にも耳まで裂けた真っ赤な口やぎざぎざと尖った牙、吊り上がった目は迫力がある。鳴き声を真似ながら動かすたび、女の子の間から悲鳴が上がった。聖一が作ったのは、小人の人形である。三角帽子を被り、緑色のチョッキを身に着けたその顔が聖一に似ていると、絢音はぼんやり眺めていた。真里も仲間の小人を作ったが、赤い服を着て睫毛が長く、いかにも気の強そうな顔立ちをしている。劇の中で真里の人形は聖一の手を追うように動き、聖一が恥ずかしそうに笑いながら下を向くと、母親たちは目を細めながら、可愛いくてたまらないといった感じで微笑していた。通路越しに真里の横顔を盗み見る。視線が合い、慌てて目をそらした。


それぞれの班が発表を終え、保育参観は終了した。保育が終わると、園庭には子どもたちが一斉に散らばる。母親たちに帽子や弁当鞄、手提げなどの荷物を放り投げ、手間取っている間に走っていく男の子もいる。満面の笑みを浮かべて。皆、そんなわが子の姿を苦笑しながらも微笑ましく見守っている。園庭は、いつもと変わらぬ、信頼と愛情に満ちた、無邪気な明るさに包まれた。絢音も母に荷物を渡し、真里と砂場に走って行った。

藤棚の甘く香る砂場は、二人のお気に入りの場所である。白や薄紫をした房状の花が咲く五月には、花の蜜を求めて蜜蜂が飛び交うため、わが子を心配して近づけたがらない母親もいる。絢音の母もその一人だった。自分が昔、蜂に刺されて呼吸困難を起こし、救急車で運ばれたことも一因のようである。

「桜田さん、大丈夫よ。うちの子もほら。」

 真里の母が、笑いながら長い髪を掻き上げ、二人の方を手で指した。栗色に染められた髪と、手入れの行き届いた爪に描かれた蝶の模様が、日差しを受けてちらちらと瞬く。

「小西先生も見て下さっているし、心配ないわよ。ね。」

 同意を求められ、彰の両親も微笑みながら、小さく頷いた。父親の方は、医学だけではなく生物全般の生態にも精通しており、研究書を出版している。危険な昆虫の攻撃を防ぐ方法などにも詳しいため、母親たちから非常に有り難がられていた。仕事の合間にもこうした場に顔を出し、子どもの相手をすることが多く、時間に融通のきく仕事でなければできないことであると、皆羨ましがっている。絢音の母は深々と頭を下げ、再びわが子の遊ぶ方へと目を向けていた。

「あやちゃん、好きな子いるの。」

クリームに見立てた花びらを砂のケーキに乗せながら、真里が尋ねた。

「え。ええと。」

「もしかしてせいくんでしょ。」

 ほかの男の子と比べて大人びている聖一は、皆に人気があった。心を見透かされたようで、絢音は黙ってもじもじと下を向く。

「かっこいいよね。まりはね、あきらくんと、あっ。」

真里は言いかけて口をふさいだ。後ろには、いつの間にか聖一が立っていたのだ。

絢音は恥ずかしさで真っ赤になった。そんな彼女に、聖一は黙って手を差し出した。手をつないだまま、二人は園庭の外れにある小高い丘へと向かった。丘には主任司祭を務める園長の植えた桑の木があり、この季節には赤い実をつける。丸が幾つも重なったようなその実は甘酸っぱく、種には独特の歯ごたえがあり、ジャムにしても美味しいらしいが、先生に見つかりそうでまだ食べたことはない。聖一は黙って手を伸ばし、その実を二つもいだ。そして、意外な行動に驚いている絢音に一つを渡すと、残る一つを自分の口に入れ、笑った。

 後ろに人の気配を感じ、二人は振り返った。丘の傍にある門に、シスターマルタが立っていたのだ。きまり悪そうにうつむく二人に、彼女は優しく、悲しげに微笑んだ。そしてつぶやくように言ったのだ。

「黄金時代ね。いつまでも続いてほしい。」


 今日の復活祭で聖一に向けられたまなざしは、あの日と同じ、哀感と慈愛に満ちたものであったことを絢音は感じ、不思議な胸騒ぎを覚える。ステンドグラスから差し込む光が、十字架のキリスト像を優しく彩っていた。



 


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紅の主日 若菜紫 @violettarei

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