幼馴染のお返し
月之影心
幼馴染のお返し
---12年前---
「女に口紅をプレゼントするってのは、それを違う形で返してくれって意味なんだぜ。」
恋愛通を自称するクラスメートが自慢げに話していた。
「どうやってって、それは自分で考えるんだな!」
当時は、プレゼント一つにも色んな意味があるんだな、気軽に贈れない物もあるんだな、と思った。
しかし、少しの期待を込めつつ駅前の百貨店に入り、初めて来る化粧品売り場をうろうろした高校3年の冬。
あいつへのホワイトデーの贈り物を探して。
---現在---
街の灯りがクリスマスの様相を呈してくる師走、何がというものは無いが、何となく街中が慌しく感じられる。
意識してゆっくり歩いているのもあるだろうけど、すれ違う人、追い越して行く人、皆自分よりも急いでいるようにも見えた。
俺は
地元の中小企業で働くサラリーマン。
年が明けるといよいよ30代に突入する。
学生時代に付き合っていた子と大学を卒業した1年後に結婚したが、『価値観の相違』という事で半年間の別居を経て最近正式に離婚した。
交際期間と結婚生活合わせて10年近く経っているのに『価値観の相違』もあったものではないのだが。
子供が居なかったのはせめてもの救いだろうか。
いつもなら、仕事が終われば真っ直ぐ家に帰って寂しく独り飯なのだが、今日は珍しい人に誘われて外食をする事になった。
待ち合わせの居酒屋に入り、予約してくれた相手の名前を告げると、店員が2階の奥の個室に案内してくれた。
相手はまだのようだ。
畳敷きの静かな部屋は暖房が効いていた。
寒い中を歩いてきたので少し暑く感じる。
着ていたコートとスーツの上着を脱いでハンガーに掛け、ネクタイを緩めた。
何だか、親父が帰って来た時の仕草に似てきたなと思う。
カセットコンロの置かれた机と対面で置かれた座布団。
取り敢えず入口に近い方に座ってスマホに目を通す。
《メール新着1件》
差出人:千夏
本文:もう着きます!
返信しようと思った時、階下から上がってくる足音が聞こえたので、そのままスマホを机の上に置いて座り直した。
襖がすーっと開けられ、約束の相手が覗き込んできた。
「ごめんね遅くなった!」
俺の肩越しに元気な挨拶をしたのは
実家が隣同士で、物心付いた頃から知っている幼馴染。
小さい頃から中学生辺りまでは一緒になってよく遊んだものだし、高校の頃は一緒に通学したりもしていたが、学力その他諸々の差で大学以降は殆ど交流も無くなり疎遠となっていた。
それがこの年になって再び交流が出来たのは、本当に単なる偶然だった。
仕事で取引先へ商談に行った時、取引先の部長の隣に座っていた『課長補佐』というのが千夏だった。
そこで驚く感情を抑え切れなかったのは若さだろうか。
取引先の部長に笑われながら商談成立したのは良い思い出だ。
その後、その取引先に足を運ぶたび、帰り際に千夏と昔のように話すようになり、今度食事でもと誘われていたのが、お互い翌日が休みとなる今日となった。
近況報告を聞く限り、千夏はまだ独身のようだ。
「いや、俺も今来たところだよ。」
ベージュのコートをハンガーに掛けて振り返った千夏は、昔の記憶にある可愛らしい姿に、大人の魅力が加わって、以前にも増して魅力的な女性になっていた。
「ちょっと暖房効き過ぎじゃない?」
一旦座ろうとした千夏はジャケットも脱いで、胸元にフリルのあるブラウス姿になった。
「義人は奥に行って。こっちは私。」
「どっちでもいいだろ。」
「誘ったのは私だからね。ゲストは上座へどうぞ。」
「そういうところ、相変わらず律儀だな。」
「取り敢えず飲もう!食べよう!お腹ペコペコだよ!」
「そうだな。俺もお腹空いたよ。」
部屋の奥側へ移動しつつ、呼び鈴で店員を呼ぶとすぐに襖が開けられ、俺と千夏の飲み物だけ聞いて下がると、入れ違いに鍋の具材を持った店員が部屋に入り、手際良く鍋の準備をしていく。
「海老大きいねぇ」とか「白菜の芯がね」とか、千夏は店員と楽しそうに話をしていた。
店員は「10分ほど煮込んでからお召し上がり下さい」と言って部屋を出て行った。
その店員と入れ替わりにビールを持った店員が入室し、俺と千夏の前にジョッキを置いて下がった。
「じゃあまずは…何だろ?」
「何が?」
「乾杯の音頭よ。こういうのって何かあるじゃない?」
「あ~、それじゃあ…『俺の独身記念』に乾杯!」
「何それぇ!かんぱぁ~い!」
グラスやジョッキをぶつけるのは良くない事らしいが、ここは千夏の楽しげな声とノリでジョッキをぶつけて乾杯となった。
実際、再会後にも何度か千夏から食事に誘われていたが、形の上だけでもまだ既婚者だったので、それとなく社交辞令としてかわしていた。
しかし、フリーとなったからには断る理由も無くなったわけで、今日の誘いに乗ったという流れだ。
ひとしきり出された料理を堪能した後、少しずつ残った料理をつまみにして千夏が話し掛けてきた。
「けど、やっと私の誘いに乗ってくる気になってくれて嬉しいよ。」
「前から乗りたいとは思ってたんだけどな。」
「何?奥さんに気遣ってたんだ。」
「『元』な。元嫁には気遣って無かったよ。」
「え~?じゃあ何で誘っても断ってばっかりだったのよ?」
「お前に気を遣ってたんだよ。」
「私に?何で?」
ジョッキに残ったビールを飲み干して、千夏におかわりの合図を送る。
「そりゃあな。俺は形だけとは言え嫁が居たんだから、嫁以外の女性と仕事以外で会うってなったら全部遊びになっちまう。」
千夏は呼び鈴を押した後、俺の顔を見て目をぱちくりさせている。
「俺は、法的にも倫理的にも本気にはなれない状況だったって事だ。」
店員が何杯目かのジョッキを机の上に置いて下がる。
「そういうところ、相変わらず義人はお堅いねぇ。」
「堅いとかそういうのじゃなくてこれは俺のケジメだ。」
「私は遊んでくれても良かったんだけどなぁ…」
千夏が妖艶な眼差しで俺を見て言った。
「酔ってきたのか?」
「この程度で酔うわけないでしょ。それに、折角義人が誘いに乗ってくれたのに酔ってる暇なんか無いわよ。」
「じゃあ冗談でもそういう事は言わないの。」
千夏がコップのウーロンハイを飲み干し、コップを机の上に置いて口を開いた。
「はいはい申し訳ございませんでしたっ!ほら、今日は義人の『独身記念』なんでしょ?もっと楽しもうよ!もう一杯頼んじゃえ。」
「分かったからもうちょっとペース落とせ。」
枝豆を口に運びながら改めて千夏を眺めてみた。
一緒に遊んでいた子供の頃とは比べるまでもないが、つくづくいい女になったなと思う。
俺が高校まで、もっと勉強して千夏に近いところに居たらどうなっていただろうか。
今以上に親しい関係になれていただろうか。
過去に戻る事は出来ないが、千夏と同じ時間軸を歩んでいた可能性だってあったかもしれない。
「義人は寂しくないの?」
唐突に千夏が質問をぶつけてきた。
離婚した事についてだろう。
「あぁ全く。」
何の躊躇も無く答えられる。
「あっさりしてるわねぇ。もっと寂しがってると思ったのに。」
「未練ってか?んなもん欠片も無いね。」
「強がりじゃなく?」
「10個話をしたら10個とも意見が違うんだぜ?共感の『き』の字も無いんだ。何か話せば必ず反論からスタート…一緒に居るだけでストレスだったよ。」
わざとらしく肩を竦めて言った。
千夏は時折ウーロンハイのグラスに口を付けながら、俺の顔をじっと見て話を聞いている。
「けど俺にも落ち度はあったよ。あいつ同様、俺もあいつの話に共感なんかした事無かったし、ひょっとしたら俺も反論からスタートしてたのかもしれないからな。」
「義人は昔から負けず嫌いだったからね。」
ケタケタと笑いながら千夏が口を挟む。
「茶化すなよ。そこは今直そうとしてるんだから。」
目を細めた千夏。
「そうそう。否定から入ってばかりじゃいい男が台無しだよ。」
「いい男って…そういう千夏は最近どうなんだよ?」
これは千夏に完全にペースを掴まれる流れだと思い、千夏の近況について話を振ってみる。
「私?私は相変わらずだよ。」
「そうなのか?いい人の一人や二人居ただろうに。」
「そりゃあ言い寄ってくる人は居たけど、いい人は居なかったなぁ。」
「何がダメだったんだ?」
千夏はグラスの縁を指でなぞりながら一つずつ言葉を繋いでいった。
「皆、私の外見、見た目から自分のいいようにイメージした私を作って、その私に抱いたイメージに惚れ込んでただけなの。」
「千夏の中身を見て無いって事?」
「一言で言ってしまえばそういう事ね。」
確かに千夏は美人だ。
千夏自身も、両親の遺伝子を忠実に引き継いでいる事を認めており、自分の見た目を否定はしない。
スタイルも何か運動をしているわけでも無いにも関わらずかなり良い。
千夏に言わせれば、それは『努力せずして親がくれたもの』らしいので、そういう所を褒めて貰っても全く嬉しくないとの事だ。
俺のような大して持ってない者からすれば羨ましい限りだが。
また、幼少の頃から茶道や華道といった習い事をしていた事もあって姿勢が良く、千夏という人間全体から美しさが溢れ出ている。
当然、そういう事もあって千夏の言う『見た目に惚れ込む異性』が後を絶えず、学生時代から度々交際の申し出を受けては断りを繰り返していた。
千夏はグラスを顔の前に置き、グラスで顔を隠すような仕草から、片目だけで俺を見て言った。
「私の本当の中身を知ってるのは義人だけだよ。」
俺はビールのジョッキに口を付けたまま固まり、次いで、気恥ずかしさで在らぬ方へ視線を泳がせてしまった。
「な、何か意味深な言い方だな。」
千夏は目線をそのままに、机にグラスを置いて続ける。
「意味深も何も言葉通りの意味よ。私は今まで、義人以外の前では本当の自分を出さないで来たもの。」
「そ、そうなのか?」
「…って言ったらどう思う?」
俺を見る千夏の視線が妖しい色を帯びている。
暫く千夏と疎遠だった影響もあるが、こういう千夏を見るのは初めてのような気がした。
「その…何て言うか…」
千夏は机に肘をついて俺の目をじっと見て俺の答えを待っている。
「ええい!そんな目で見るな!」
つい照れ臭くなり、千夏から視線を外してふざけた言い方になってしまう。
千夏の顔がニコニコとした笑顔に変わる。
「義人は変わらず正直者で嬉しいよ。ほら、ここは私と二人っきりだし、正直に言ってごらんなさい。」
昔から千夏はこうだ。
俺の心の中を見事に見抜いてくる。
社会人になって、嘘とは言えずとも方便や社交辞令は当たり前のように使うようになっていたが、当然、仕事中にこういった会話は無いわけで、素の自分は嘘が苦手で不器用な人間だ。
なので、ここは感じたまま正直に言うのが無難だろう。
「まぁ、正直言えば『独占欲を掻き立てられた』みたいな感じかな。」
「ふふっ、正直でよろしい。」
千夏は座布団の上に立ち上がると、はっきりとした足取りで俺の座席側に移動し、俺の左隣にぺたっと座り込むと、左腕に頭をもたれかけてきた。
「どうした?酔ったか?」
「だから今日は酔ってる暇なんか無いんだってば。」
「じゃあいきなり俺に寄り掛かってきた理由を述べよ。」
「ばぁか。」
千夏が俺の左腕を抱く。
千夏の胸の膨らみが、千夏のブラウスと俺のカッターを通して伝わって来る。
さすがに思春期はとうに過ぎているとは言え、これはかなり刺激的だ。
「千夏…?」
「独占…」
「ん?」
「…したっていいんだよ?」
「え?」
一気に体温が上がる。
千夏の胸が押し付けられた左腕と、千夏に近い左耳に意識が集中する。
店員の威勢の良い声が遠くから聞こえる。
静かな部屋の中は、微かに二人の息遣いと身動ぎした時の布が擦れる音が聞こえるだけだ。
「義人…酔った?」
左腕に抱き付いたままの千夏が顔を上げて問い掛ける。
「まさか、俺もこれくらいでは酔わないよ。」
少し強がってみた。
多分、普段なら少し酔ってしまうであろう量は飲んだ気がするが、今日は全く酔っていない。
と言うよりも、左腕に伝わる柔らかい感触と、数センチ動けば唇が触れてしまいそうな程に近付いた顔のせいで、酔いが完全に醒めたと言った方が正解か。
「場所変えて飲み直さない?」
「あ?あぁ…そうだな。何処かアテはあるのか?」
「うん。歩いて15分くらい掛かるけどいい所があるよ。」
少々勿体無い気もしたが、このままこの体勢で居ると理性が持たない。
体を冷却する為にも一旦外へ出るのが正解だろうと判断し、行き先は千夏に任せて店を出る事にした。
店を出ると、冬らしい冷たい風が頬を突き刺す。
外を歩く人の数はそれほど減っていない。
それもそうだ。
まだ21時を過ぎたばかりの繁華街で、閑散としていたのではこの街の経済が心配になってしまう。
尤も、俺と千夏が小さい頃を過ごした地元であれば、この時間になれば繁華街はおろか、駅前ですら人の歩く姿をちらほらしか見掛けなくなるのだが。
「そうだったね」「不便な街だったよね」と昔を思い出しながら千夏の言った15分を歩くと、割と立派なエントランスを構えるマンションの前に辿り着いた。
「ここだよ。」
「ここって…マンション?」
「そ。私の住んでるマンション。」
「へぇ。いいとこ住んでんだな。」
「でしょぉ!頑張って稼いでるからねぇ。」
「マンションに飲み屋があるのか?」
半分お惚け、半分戸惑いだ。
「んなわけないでしょ。」
「いいのかよ?」
「今更?お互いの部屋を行き来した仲じゃないの。」
「20年も前の話を持ち出すか。」
子供の頃、それこそ物心着いた頃からお互いの部屋を行き来し、勝手に漫画を読んでいたり黙って参考書を借りていったりしていた仲だ。
確かに『今更』ではあるが、子供の頃と今とでは話が違う。
「嫌なの?」
その上目遣いで人を見るのは反則だ。
「嫌なわけないだろ。」
「ではどうぞこちらへ。」
千夏は舞台女優さながら、大きな身振りで俺をエントランスへ案内してくれた。
エントランスへ入って左側にエレベーターがあり、千夏が上のボタンを押すとすぐに扉が開いた。
エレベーターに入ると、千夏は『8』のボタンと『閉』を押した。
微かな振動と共にエレベーターが上昇していく。
8階に到着すると、千夏が『開』のボタンを押して「どうぞお先に」と俺を促し自分もエレベーターを降りると、そのまま真っ直ぐ自分の部屋へ歩いて行った。
『808』と書かれたプレートが付いたドア。
ここが千夏の部屋らしい。
ドアを開いて千夏が中へと導く。
「結構広いんだな。」
素直な感想。
俺の部屋よりも広いかも…いや、間違いなく広い。
「女性の部屋をジロジロ見ないの。」
千夏はコートとジャケットを脱ぎ、ハンガーに通して壁際のラックに掛けた。
俺にも上着を脱ぐように言い、同じようにラックに掛けてくれた。
「ワインでいいかな?」
言いながらキッチンへと歩いて行く。
タイト気味のスカートは、千夏のかっこいいヒップラインとすらっと伸びた脚を際立たせていた。
「何か手伝おうか?」
千夏の後姿を眺めつつ、手持ち無沙汰な時間を無くしたくて手伝いを申し出る。
「あ~じゃあそこのカップボードからワイングラス出してくれる?」
千夏が顎で指した先にあるカップボードを開け、中段に置いてあるワイングラスを2つ取り出してリビングへ持って行く。
「有り合わせだけど。」
と、ワインボトルを右手に、お皿に載せた数種類のチーズやサラミを左手に、千夏もリビングへ戻って来る。
リビングの真ん中に置いてあるガラスのテーブルにボトルと皿を置くと、千夏に促されるままソファに腰を下ろした。
千夏も俺に並ぶようにソファに座る。
居酒屋と同じように俺の左側。
そう言えば、昔からこうして並んで座ったり歩いたりする時は、決まって俺が右側で千夏が左側だった。
「それじゃあ改めて…何にしようか?」
「う~ん…改めてと言うなら『幼馴染の再会』に!」
「本当に今更ね。」
ふふふっと千夏が笑う。
薄いグラスは少し当たるだけでも傷になったり下手をすればそれだけで割れたりするので、今度はグラスを軽く掲げるだけにして乾杯した。
「義人が私の部屋に来るなんて何年ぶりかしら?」
「ここは初めてだろ。」
「小さい頃からカウントしての話よ。」
「最後に千夏の部屋に行ったのって…いつだ?」
二人してソファに背中を預けて天井を仰いで考えた。
「高3の年末に一緒に年越し蕎麦食って、その後初詣に行った辺りか?」
「あったねぇ。けど私の記憶では、高3のホワイトデーに義人がバレンタインのお返し持って来てくれたのが最後になるのかな?」
「あったな…」
黒歴史と言うわけではないが、どこか気恥ずかしさもあり、呼び出しにくいところに仕舞っておいた記憶。
「あの時くれたk…「まぁいいじゃないかははは!」
「何よ?私はそういうことなんだと思ってたんだけどな。」
「し、知ってたのか…?」
当時の記憶が鮮明になるに連れ、脳内の羞恥心が膨れ上がっていく。
「義人がくれたのはもう使っちゃったけど、あれからずっと同じブランドのを使ってるんだから。」
『マリー・クヮント』…その話が流行った時、自称恋愛通のクラスメートに教えて貰ったファッションやコスメティックのメーカー。
そのメーカーの口紅を、バレンタインのお返しにプレゼントしたのだ。
「勿論、今日つけてるのもそうだよ。色も同じ。」
正直、あの時プレゼントした口紅の色は覚えていない…と言うか、何百何千とある微妙な色の違いなど、化粧品に興味の無い頭では覚えている筈も無い。
「そうなんだ」と言えただけで言葉が続かない。
と、千夏が居酒屋で居た時と同じように、俺の左腕に抱き付いて体を預けてきた。
再び左腕に千夏の柔らかい膨らみが押し付けられている。
「あの時のお返し…まだだったね。」
視線を動かすまでもなく、千夏が左腕に抱き付いたまま俺の顔を見上げているのが分かる。
心臓の鼓動は、確実に千夏にも伝わってしまっているであろう程に高鳴っている。
「あのさ…千夏…」
「うん?」
「何て言うか…」
「うん…」
「俺の中に居る『幼馴染の千夏』と『一人の女性の千夏』…どう扱えばいいのか分からないんだ…」
千夏は同じ体勢でじっと俺の横顔を眺めている。
俺は千夏に目線を移す事も出来ず、固まったようにテーブルの上に置かれたワイングラスを凝視していた。
「幼馴染の私は…嫌い?」
「そんなわけあるか。」
「一人の女性としての私は?」
「それが分からない…凄く失礼な言い方だけど、幼馴染の千夏以外の千夏ってのが頭の中に出て来ないからだと思う。」
左腕を抱いている千夏の腕に力が入る。
「二人が大学に行った後、最初の電話覚えてる?」
突然、さっきとは違う記憶の引き出しを開ける必要のある質問が飛んでくる。
これも、あまり思い出したくない記憶。
「え?あ…あ~電話した…な…うん、覚えてる。」
「何話したかも?」
「あぁ…千夏が彼氏出来たって…」
「そうだね。」
千夏は腕に抱き付いたまま、ゆっくりと言葉を続ける。
「あれ聞いた時、義人はどう思った?」
電話で聞いた直後ならともかく、今の千夏には嘘は勿論、格好付けるのも無意味な事は十分承知している。
なので、当時の気持ちに立ち返り、感じたままを素直に伝える事にした。
「嫌な気持ちになったよ。『千夏を取られた』って。」
「うん。」
「無性に腹が立った。千夏を取った彼氏に…俺に何も相談して来なかった千夏に…」
「そう…ごめんね…」
「いや、そうじゃなくて…」
ソファに預けた背中を起こし、ワイングラスを取る。
口にワインを含み、染み込ませるようにゆっくり飲み込む。
「違ったんだ。」
「続けて。」
千夏は相変わらず俺の左腕に抱き付いたままだ。
「そもそも、千夏は俺のものでも無ければ彼女でも無かったんだから『取られた』って思う事自体が違ったんだよ。」
千夏が無言で頷いている。
「腹が立ったのは、千夏でもなく、千夏の彼氏にでもなく、俺自身…千夏に何も伝えなかった俺に対してだったんだよな。」
「後悔した?」
「あぁそりゃもう!部活で失敗したとか試験で凡ミスしたとか比べ物にならないくらい、今も含めた人生の中で一番後悔したね!」
素直に話していると、不思議と気分が明るくなってくる。
隣で千夏がふふっと笑って体を起こす。
左腕は相変わらず捕獲されたままだ。
「次は、仕事でうちの職場に義人が来て、私と久し振りに会った時、どう思った?」
また唐突に時間が流れる。
「え…あぁ、そりゃ嬉しかったよ。」
「どんな風に?」
「どんな…って難しい質問だな。」
先程までの艶っぽい表情とは打って変わって、キラキラとした目で俺を見ている。
「そりゃまぁ、大学入って以来だから10年ぶりくらいだったのに、仕事が終わったら昔と変わらない態度で接してくれた事とかが嬉しかったな。」
「義人と話すのに社交辞令は要らないからね。」
「そういうところが嬉しかったんだよ。」
千夏が左手を伸ばし、俺の右手に持ったワイングラスを取ると、それを一口飲み込んだ。
「義人の中には『幼馴染の私』がいっぱい居るんだね。」
「当然…だな…ん?そうか…」
言いよどむ俺の顔を、首を傾げた千夏がじっと見ている。
「何が?」
千夏の左手からワイングラスを取り返して口に運ぶ。
「俺の中に居る千夏の事。」
「うん?」
「『一人の女性として』なんて無いんだ。」
「一人で納得してないでよ。」
「つまり、俺の中に居る千夏は、彼氏が出来た時も会えなくなった時も久々に会った時も、全部『幼馴染の千夏』なんだよ。」
「うん。」
「その千夏を好きなんだから、別に『一人の女性』って言う場所に千夏をもう一人作る必要は無いって事。」
何故俺は千夏を『幼馴染』と『一人の女性』に分けようとしていたのか。
千夏は千夏でしかない。
「俺は、千夏が好きだ。」
千夏が左腕から離れると、そのまま今度は俺の首に腕を回して抱き付いてきた。
「やっと言ってくれたか…待ってたんだぞ…」
千夏の唇が左頬に触れる。
千夏の腰に手を回して体を支えて抱き抱える。
顔を左に向けると、目を潤ませつつ嬉しそうに笑みを浮かべる千夏が居る。
目を閉じる千夏。
睫毛が濡れている。
俺はそっと唇を重ねた。
「お返し…出来たね。」
10年越しのお返しは、赤ワインの味がした。
幼馴染のお返し 月之影心 @tsuki_kage_32
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