第7話 炎

 炎



 コレは誰だってこわいはずだ。


 炎の殺傷能力をここで語る必要はない。

 そんな事、誰だって知っている。



 それなのに、皆、キャンプファイヤーやら、花火やら、やたらと簡単に炎を娯楽に使う。


 恐らく、炎に殺され掛けた経験がないのだろう。



 私は、ある。



 まぎれもない体験談を記す。



 とある休日の昼下がり。


 昨晩の天ぷら油を固めて捨てようと思い、鍋を再加熱をしていた時だった。


 鍋と睨み合っていたのだが、なかなか温度が上がらない。


 その時、リビングにいる幼い娘が泣き出した。



 眠たいのに眠れず、私を呼んでいたのだ。


 私は少々鍋の前から離れ、娘の所へ行ってしまった。


 娘の横で寝かし付けをしてやる。



 私とした事が、一体なんたる愚行。



 いま思い出しても、自分が信じられない。



「お母さん、なんかすごい火が出てるよ」



 別の部屋にいた息子の声がした。


 鼻が効く息子は、臭いが気になり、台所を覗いたようだ。




 慌てて台所に戻ると、



 鍋から勢いよく炎が上がっている。




 終わりだ。と、思った。



 私にはその状況が世界の終わりのように思えた。




 落ち着かなければならない。今、幼い子どもたちの生命を守る事が出来るのは私一人だ。


 夫は朝からウキウキと釣りに出掛けている。

 大人は私一人。



 ここからどう行動するかが生死を左右する。

 炎相手には、即席ナックルも通用しない。



 まずは、


 炎を消す行動だ。



 何を思ったか私は、側にあったケトルに水を入れた。



 いや、待て。落ち着け。油に水を注ぐのはご法度ではないか。


 たちまち大爆発が起きて、丸焦げになる。



 危ない。気付いて良かった。



 こんな時は、確か、炎から空気を遮断する方法が適切だ。



 炎に鍋の蓋を被せるんだ。




 いや、出来ない。


 私が悩んでいる間に、炎は天板まで達していた。


 コレに鍋の蓋を被せるなど、無理だ。



 バスタオルを炎に被せるのはどうか?


 いや、バスタオルごと燃えてしまう。



 水に濡らしたバスタオルだ。



 いや、でも待てよ。バスタオルを鍋に被せる際に、鍋を倒してしまったら。


 大量の油と炎を台所中に撒き散らし、大惨事が予想される。


 鍋を倒さないように慎重に、この大きな炎に、そっと被せなければならない。

 多少手や腕に火傷を負う覚悟が必要だ。




 無理だ。


 私はそんな冷静さも、度胸も持ち合わせていない。



 それに万が一失敗して、私が丸焦げになってしまったら、誰が子どもたちを守るのだ。



 電話だ。



 私はまず、釣りに出かけている夫に電話を掛けようとしたが、思いとどまる。


 夫がすぐに電話に出る保証などない。

 

 だとしたら時間の無駄だ。



 そもそも、素人の夫に電話をした所で、一体何をしてくれるというのか。

 まるで意味がない。




 最終手段だ。



 119。



 やはり、プロに指示を仰ごう。


 生命を守る行動として、コレが最も適切な行動だ。




「すみません、鍋から火が上がってしまい、天板まで届いています。どうしたら良いですか?」



「まずは住所とお名前をお願いします」



「いや、そんな暇はないんです。適切な火の消し方をすぐに教えて下さい。火がどんどん大きくなっています。早く」



「落ち着いて下さい。まずは住所とお名前をお願いします」




 なんて事だ。今まさに、目の前の炎に殺され掛けていると言うのに、名前と住所?


 なんて暢気なんだ。


「だから、早く消し方を教えて下さい!!」



「落ち着いて下さい。名前と住所を……」



 何がなんでも私から住所と名前を聞き出したいらしい。

 観念して、猛烈な早口で名前と住所を告げる。


「それで! どうしたらいいですか?」

 もう私の声はほぼほぼ絶叫である。



「消火器を使いましょう。近くにありますか?」


「ありません!!」



「マンションですよね? 恐らく踊り場や、エレベーターの近くなどにあると思いますよ。その前に他にご家族がいらっしゃるなら、外に出して安全を確保してください」



「〇〇(息子の名前)! 今すぐ外に逃げなさい! 早く!」



 炎が上がっている事実を自分の目で確認しているにも関わらず、息子は自分の部屋で平然と工作などしていた様だ。

 とても私の息子とは思えない程の危機管理の薄さだ。



 とぼけた顔の息子が手に謎のダンボール工作を持ったまま自分の部屋から出て来た。



 玄関で靴をのんびり履いている。



「靴なんていいから! 早く外へ!」


 息子を裸足のまま追い出した後、私は眠りに付いている娘を片手で担ぎ上げ、玄関の外に出した。


 突然起こされた娘は酷く不機嫌になって泣いていたが、構っている暇はない。



 119の言う通り、エレベーターの横に消火器を見付ける。


 すぐに消火器を手にすると、私は一人、部屋に戻る。


 

 119との電話はまだ繋がっている。


「消火器を見付けました!」



「良かったです。では火元に向けて噴きかけて下さい」



「使い方が分かりません! きゃー! 火が! 火がどんどん大きくなっています!」



「落ち着いて下さい。もうすぐ消防が到着します。消火器の上のピンを外せば使えます」



 なんて頼り甲斐があるんだ。


 やはり夫ではなく119に電話した私の判断は適切だった。



 ピンを外して、火元に噴きかける。


 消火器からは何やらピンク色の粉が勢いよく飛び出し、炎をみるみる消し去った。

 



「消えました! すごい!」


 炎が消えたのを確認した私は消火器を止める。



「落ち着いて下さい。消火器は最後まで噴き切って下さい。途中でやめてはいけません」



 え?


 すると、消えた筈の目の前の炎が、突然息を吹き返したかのように、また燃え上がる。



「また火が! きゃー!」



「落ち着いて下さい。とにかく最後まで噴き掛けてください」




 言われた通り、再度消火器を使う。



 粉が出なくなるまで噴き切ったところで、ようやく本当に、炎が消えた。

 

 助かった……



「消えました! 本当に、本当に……ありがとうございます!」



「良かったです。ではあなたもすぐに外に出て安全を確保して下さい。あとは到着した消防の指示に従って下さい」



 

 なんて頼り甲斐があって優しい人なんだ。私が独身であれば、好きになっていたかもしれない。




 玄関の外に出ると、マンションの下には、



 梯子車二台、消防車三台、救急車、パトカー……それから無数の野次馬……




え? アレ? 




 もう、消火したけど……




ドタドタドタドタ



 私の目の前に、完全防備の消防士数人が、大きなホースを抱えて現れた。



「大丈夫ですか?! お怪我は?! 火元はこの部屋ですね! 消火します!」




「いや、先程消火器を使って…消火しました……」



「確認します!」



 消防隊員達が部屋を開けると、中からは宙を舞う消火器の粉達が飛び交っている。




 「完全に消えてました!」



 半笑いの消防隊員達があっさりと戻ってくる。




 「火元はこちらの鍋ですね」



 真っ黒焦げで、大量のピンクの粉が詰まった天ぷら鍋。




 消防隊員が私に聞き取りをしながら、報告書の様な物に、



 小火。



 と、書いていた。小火。ボヤ。




 ボヤ騒ぎというやつだ。






 でも、間違いない。




 小火などと言って侮っていたら、私も子どもたちも、今頃丸焦げになっていたかもしれないのだから。




 少なくとも、私には、



 あの炎は、小火ではなかった。






 裸足で立つ子ども達。



 無数の野次馬。




 粉まみれの部屋。




 後日やらなければならない近所へのお詫び行脚。





 税金泥棒。







 それでも、私は最善の選択をしたと信じている。





 全てが終わった後に、釣りから帰った夫がため息を吐いて言った。





「水に濡らしたタオル掛ければ良かったのに」






 ならば、己が釣りに行かずにやれば良かっただろう。



 時間は巻き戻す事は出来ない。


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