第5話 食べること

 食べること



 誰でも皆、食べることによって、生きている。

 食べることは一見、《死》とは限りなく遠い行為であるようにも見える。

 しかし、違う。食べるという行為は、いつだって《死》と隣り合わせ。命懸けだ。

 少なくとも私は、いつ何時も、命懸けで食事をしている。


 私は幼い頃、小さなピーナッツに、危うく殺され掛けた経験がある。自分の記憶にないくらい幼い頃の話だ。母親からそれを聞かされた時は、あまりにも恐ろしくて、失神し掛けてしまった。


 私の両親が酒のつまみに食べていたピーナッツを、幼い私が一つコッソリと食べたらしい。

 その事に誰も気が付かずに小一時間経った頃。私の兄が、私をドンっと押した。

 床に倒れ込んだ私は、大声で泣き叫び出したらしい。

 その瞬間、私の顔はみるみる紫色に変化していったそうだ。

 そのまま救急車で運ばれ、気管支を切開する大手術が行われ、一命を取り留めた。


 ただ、ピーナッツを食べただけなのに。


 ピーナッツは、まるで遅効性の毒の如く、私の気管を塞ぎ、静かに殺そうとしてきた。


 ピーナッツだけではない。飴玉なんかも同じだ。飴玉を喉に詰まらせた経験のある人間なら分かるだろう。

 私はこれまた幼い頃に飴玉を喉に詰まらせた事があるが、ピーナッツの時とは違い、あの苦しさを、今でもハッキリと思い出せる。

 あの苦悶、声に出せない声、目前に迫り来る死。


 毎年正月になると、餅を喉に詰まらせ亡くなる老人が続出するわけだが、

 餅だけではないのだ。そしてピーナッツや飴玉だけでもない。

 強力な殺傷能力を秘めた食べ物が、この世にはごまんと存在している。


 笑いながら飴を食べてはいけない。

 喋りながら食べるのも危険だ。

 寝転がって食べる行為は言語道断。

 飴玉は、隙さえあれば、いつでも我々を殺めようと息を潜めている。


 正しい姿勢で、ただ黙って、飴玉の味を堪能しながらゆっくり食べなくてはならない。

 そうすれば、飴玉職人も喜ぶであろう。



 食卓にはいつも危険物が溢れている。


 常に疑って掛からなければならない。

 そのニラ玉。ニラのように見えるが本当にニラなのか、猛毒のある百合の葉ではないかとなぜ疑わないのか。


 その刺身にはアニサキスはいないか。

 よく目視すればアニサキスは見つけられるというのに、なぜ皆疑わずに食べるのか。


 粉物には無数のダニが潜んでいる事もある。

 そのお好み焼きは本当に安全か。

 粉の保存状態をしっかり確認したうえで調理をしたのか。


 醤油だって、1L飲めば人は死ぬのだ。

 食卓に青酸カリが置いてあったら誰だって悲鳴を上げるのに、醤油が置いてあっても誰も何も言わない。

 実際に醤油を飲んで自殺した人間もいるのだ。

 自分の家族がそんな事をしないように、食事が済んだら醤油は隠してしまわなければ危険だ。



 そもそも、その食事を作る人間は本当に信用出来る人間なのか。


 常に想像力を限界まで掻き立てて、

 ありとあらゆる危険を想定し、命懸けで食事をしなければならないのだ。


 食べないという選択肢は人間にはない。



 食べないこともまた、自殺行為である。


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