第3話

二つ飛べば、彼女の肩に届きそうだ。 君子堂に入らず堂の軒先にいる。格子戸を左へと押せば開く、開けるだけならまだいい靴脱ぎがあるだけで、こんばんはと声をかける。堂の床しい奥へと足を踏み入れた途端、鴨居の欄間の松が孤島の崖に生え、障子の端に浪浪と水平線が写り巨大な月が煌々と縁に影を落とす、滑らせた虎竹の襖が消え板式の通路が消え靴脱ぎが消え、門が消えて堂の奥に留まることしかできない。 

憧れのコロニアル都市グナファト・オアハカの幻想的な景観は、秋つ葉の衣に近思的でアート。秋山の紅葉黄葉をみれば貴人を思い、青葉をみればいついつかと貴方を待つのが辛く嘆く。 鷹の羽毛が抜け落ちて此処が死地かもしれない、進まない理由は幾らでも付くが、腹を据えるには覚悟と度胸がいる。行動すればいやが応にも責任を負うことになる。

 向こうで鼻息がする。眠ったようだ。   

明かりを切ってカーテンの片側を左へ引く。月が隠れ、満天星が白から赤に染まって可憐に弾ける。さきの肩がこちらへ寝返ってケットが奥へ隙間にさわと滑り落ち、頭部から頸の線、登って肩、左斜めにたわたわと窪んでからとつとふくれて丸い桃尻に至って、とおおと太股に足先の親指へと線が真横にゆらりと伸びて来てとても綺麗だ。 足元から並んだ靴を跨いで胸辺りで止まる、膝を折って蹲まり息を凝らす。 すうすうとさきの寝息がしている。顕わな二の腕を軽く二の指で捻る。弾力があってつるんと冷たい。体を捩じってもう一方からケットを取り掛けてやる。置棚にはパソコン、ケータイ、ピアス、革の眼鏡ケース、薬の瓶、金の腕時計、日記帳にペン、ミネラルウォーター、英語の書籍、棚下には黒のリュックが置かれている。寝顔がさきの言動が自然とまいを回顧させる。整然な針筋で目が均等にズボンの破れを縫っている。床に腰から斜めに倒した下腿、筒裾から足首がでる。かいなはふくよかでつと手を止めて、おのおの一指を曲げて引き合い、引き寄せて遊んでいる。  

木本が弓ならばまいは弦で、矢を飛ばしたのはめぐである。矢をつがえたから飛んだのか、飛んだからつがえたのかとにかく射放した余勢で弓弦が肘の外から廻って返り腕の腹に当たる。弓と弦は矢を射るために合わさる。弓と頬の傷は曲がっている。弦はまっすぐである。まいは全面の正義がめぐを罵倒し、めぐは鋭く放った矢に謝罪した。矢はまだ胸へ深く刺さっている。蕗の塔が出て春が訪れ二人は時間を謳歌する。桜月夜が美しい。女の芳香が男に纏わりつく。野山にたんぽぽと菫が咲き乱れる。柔らかな新緑の粧いが二人を包む。徒にまいの手の甲から眸を意欲に見て、まあとまいは得心の眼差しでくすと見返す。心房を聞き、事実を聞き、心魂を誓い、ひたむきに溺れて、この長き春日に表裏を読むことなく、弦が真下へ垂れる如くに、それでいて柳のように風を受け止め往なして過ごす。六畳に和室に机を挟んで永遠であろうあさとひぐれまで会話をしている。何の会話か、なんでもいい。他愛無い。世間を遠のいて薪と柴で微かに焚き木する。ああ暖かい。

すとんと眼鏡ケースが落ちて慌てる。さきは熟睡しているようで起きない。元の椅子に腰かけて旅の装備品を確認する。脳髄が発熱して頭痛、頸部硬直が現れる。パスポートに航空券、下痢止め、酔い止め、風邪薬。洋服にペソ紙幣コイン、ペンライト。MS1000が3枚、MS200が4枚MS50が5枚、後は複数のコインと日本札。此れが尽きれば一貫の終わり屍を晒すことにもなりかねない。宿泊代が一泊MS1000で・・・。予定では確かと手帳を見る。

バックパッカーなら一日食事してもMS500のはずだ。計算が狂っている。そもそもガイドブックを無くしてとほほとさきに救われた。

ビザは3カ月、チケットは変更可能だから・・どのぐらい金がもつか・・・。 

湖上へ浮かぶ都市テノチティトラン。1519年にエルナン・コルテス率いるスペイン軍が大西洋からメキシコ湾岸へと上陸する。一度は撤退させるも1521年、アステカ帝国皇帝クアウテモックは勇敢に戦い首都テノチティトラン陥落、300年間スペインの植民地となる。アステカの神殿は悉く壊された。湖は埋め立てられその上にメキシコシティが築かれた。

キリスト教やスペイン文化が先住民達にも圧し付けられ元の風俗にスペイン文化が融合されて特有の混血文化が生成されていった。西洋料理が、トウモロコシ、トマト、ジャガイモ、チョコレート、唐辛子等の食材を知るのはこの後である。まいが見たメキシコの黄なる空と旗雲にフローダカーロからパレンケへの旅の軌跡、記された手帳にゴンドウの文字? 役員沼田2? パカル王。 あの時身近にいたなら止めれただろうか。君の衰弱して痩せた腕、隈のかかった瞼の暗い淵、以前の健康的な体も急激に見る見る内に細く萎びて訴え叫ぶ。お前たちのせいだと。その時僕は県外に就職していてまいに何が有ったのか全く知らなかった。よく家に遊びに行ってご飯を御馳走になった。伯父さんは丸眼鏡の骨柄よく頭はおでこから禿げあがって、つるんと照明に半透明に光って、寡黙で二人の、娘、息子の幸せを言葉に発するような性質ではないが願っていたはずだ。叔母さんはいつも明るくて手料理を腹一杯に存分に食べさしてくれた。一家団欒があったのに、叔母さんから悲運な、悲しみ痛ましい連絡が来る。まいは死んだのだ。涙がどっと零れた。

「どうしたの泣いてるの」まいの声が聞こえる。

「すまなかった」

「なに、寝ぼけて。おはよう」

眼をごしごしと擦って見回した。

「やあ。おはよう」椅子に座って寝てしまったようだ。カーテンが開いて陽が射す。

「すごく魘されてたよ、泣いてたし寝てて涙が出てるの初めて見た。大丈夫」とホットコーヒーを淹れてくれて、ちょこんと隣へ座る。 

「うーん今何時?」

「9時10分過ぎ。ここで寝たの・・・ベットあ

るのに・・・」

眼を閉じて窄んだ顔がこくと頷く。隣で愉快に肩がふふと振れる。まあそうだろうと片肘をついて河原の石になって頬の傷を太陽に晒し微動だにしない。

「それより。寝れましたか・・・」口だけが開く。

「うん。ごめんね、急に呼び出して・・・。ぐっすり寝れました。ありがとうございました」と頭を下げた様だ。気配がそよ吹く。

「そう、それならよかった。もう部屋に戻るね。ちょっと休んで行きたい所もあったから」 「うん、わかった。困ったことがあったらいつでも連絡していいからね」「はい 頼りにしてます」と世辞をいう。女は喜色な様子で一の心計と接意する。

ベットにうつ伏せに倒れて、ぐっすりか・・・と呟き寝た。正午に眼が覚めて歯を磨き、シャワーを浴びて外出する。北へ300メートル歩いて、レフォルマ通り横断歩道を往く。一台のワゴンが赤信号を無視して傍を横切った。気温は22度、日差しが強く頭がくらくらとして心臓の音がどくと体内で響いてくる。気を付けなければと掌で右半面を2、3度敲いて大通りを渡り、日本大使館へと入る。領事部へ行きガイドブック、飛行機のチケットを紛失した事を告げる。其れは飛行場へ直接に問い合わせてくれとの返答で、此処ではわからないとの事、まあ冷静に考えれば解りそうだが・・・。安宿の情報と近くの書店を教えてもらって大使館を出る。安宿の中には売春宿等もあるから気を付けたほうがいいと言う。ガイドブックを書店で購入して南東に15分フォナートで民芸品、カラフルで緻密な刺繍服を眺め、インスルヘンテス通り革命記念塔へと向かった。19世紀中期、メキシコ革命の指導者マデロ、ビージャ、カランサが永眠している。レフォルマとは革命。ポルフィリオ・ディアスが政権を握った30年は、鉄道、港湾、新銀行の設立、工業や農業も拡大して通信網などのインフラが整備され目覚ましい経済発展を成し遂げた。しかしこれらの発展は外国資本の開発であってその資本家達に、メキシコ国土の5分の1を所有されてしまう。外国の資本がメキシコの経済を支配下に置いたのである。ディアスの独裁支配の元で労働者は過酷な労働条件で働かされ、外国人に国の富を毟り取られて反抗するものには容赦なく弾圧が加えられた。20世紀に入ると圧政に対する反対の革命の声が起こってくる。自由党を結成して大規模なストライキ、農民闘争が始まり各地で激しいゲリラ戦が行われた。軍隊は破れて失脚したディアスはパリに亡命する。その後の憲法では基本的人権、巨大な権力をもった教会と国会の分離、労働者の地位の改善、保障等と改新されたもので、地下資源は国家の財産と定め外国人が奪うことを禁止した。 農地革命、主要産業の国有化と社会主義の政策を展開して、外国に支配されていた石油産業をも帰することになる。

 この辺りにドミトリーの安宿が2件あるため散策している一。記念塔を過ぎて左の道へ折れて、進んで行くと右手に整列した人の群れが一団ある。浅葱色の半袖シャツに、黒のパンツで運動靴という風体で皆同じところを見ると制服の様だ。道を渡って左側の歩道へと上がって様子を窺う。近付くて行くとpoliciaの腕章、メキシコの警察だ。1,2,3・・・6人程歩道に並んでいる。全員が肩からak-47スタイルライフルの自動小銃を提げている。一目してから通り過ぎる。其れ其れ車に二人ずつ乗って巡回に出るようだ。大きな交差点を渡って真向かいの歩道へ足裏を下し踵を返した。 ・・・あった鉄扉へ白地に日の丸が描かれている。呼び鈴を押す。中から30前後の日本人男性が出て来て用を尋ねる。

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