第2話

工芸品を眺めて、長閑に一服する2人。

「なんかここ落ち着くよね」

「そうだね…」

「どうしたの」

「…………」

「そんなにじっと見ないで、照れるから」

「ごめん」

「そういえば、一君はどうしてメキシコに来たの?」

「うん、ある人を探して」

「誰…」

「誰でもいいじゃん。それよりもこっちに来てどれくらい?」

「半年くらいかな」

「ニュースで見たんだけど少し前にバスで亡くなった日本人を知ってる?」

「うん、見た見た。なに親類!」

「会ったの」

「ううん。知らない人。確かパレンケ遺跡に向かうバスでだよね」

「そうそう、詳しんだね!」

「ううん、ふつーだよ。私も女1人だから最低限の情報収集はする。今は余り動かない方がいい情勢だよ。」

 2006年に誕生したカルデロン政府。麻薬カルテル(組織)に対しての長年の均衡を破って、武力による掃討作戦が開始された。作戦は熾烈を極め、民間人を巻き込んで逮捕、拷問により2万人のカルテルメンバーを拘束、射殺等で代理処刑することで対策している。司法、警察機関の腐敗汚職も進んで逮捕者も出た。連邦調査機関(AFI)のエージェントの幾人かは組織の暗殺者として活動していると噂され、7000人のメンバーのうち1500人が容疑者として取り調べ、約450人が嫌疑を受けた。

「こんな時に来るのって…?」

「そうだよね。おかしいよね…その日本人、浩太って言うんだ」

「そうなの。名前までは知らなかった」

「そっか!それならいいんだ…。しかし、庭はのんびりだけど髑髏とか絵なんか気味悪い。芸術なんだろうけど、好きなの?」

「うん。ぞわぞわってげいじゅつ」

「ふふ、何それ」

「でも気に入ったの。ちょっとした刺し傷」

「……」

「ずっと見てたから」

「ああ、あれの事。挿絵で見たことがあったから、それとほれ」と机を肩と背が覆って左頬を正面に突き出した。さきがわっと眼を寄せて寄る。

「すごい傷跡。痛そう。大変だったんだね」

「気味悪くないんだ?」

「うん。平気だよう」

「そうですか…」肩を引いて片肘に右頬を載せる。

「なに?急に考え事」

「そうそう…。ちょっと聞いていい。あの絵画の右足って変じゃない」

「そうだよね…。でもフリーダさんは小さい頃にポリオっていう感染症で右足が痩せ細ってて、それを隠すためにズボンやロングスカートを好んで着てたんだよ」

「ふーん。美人だよね…フリーダさん!これ小学校の時に崖から落ちて!」

「まだ痛いの」

「そうでもないけど。冬は疼くかな」

「別に隠さないんだね。普通だし」

「そう見える…。結構気にしてる本当は。この廂で影作って」と帽子に触れる。

「ふふふ、なんか羨ましいな。……え、いやフリーダさんならそう思うかなって…」

「なに、笑うとこ…この傷も俺の体の一部だし、取り外すわけにはいかないしな。諦めだよ」

「じゃあ、諦められないのが芸術家!一君みたいな太陽が近くにいたら、あんなに素晴らしい作品は生まれないんじゃない」

「そうかな。まぁそれに比べたら俺の悩みなんてあの浮雲のように」と天空を仰ぐ。

「目には目の役目が。口には口の。小指にだってちゃんとある。この傷の役目はね…詰まる所さっき君にしてみた。俺なりの人の計り方なんだ」と疾風がどっと2人を貫いて衣服を剥ぎ取らんと波打たせた。

「じゃあ、合格でしょ!」

「そうなるかな」

「やった、ふふ」

机を正面に挟んで2人が、コロンビア産の挽きたてコーヒーを飲んでいる。颯爽と芝生の茂った静観な庭。話は途切れた。

 日本は秋。ここにもさわやかな涼風が来てココヤシの扇葉がいくいくも2人の空間をひた隠す。隣のミチョアカン州では、昼は政府軍と麻薬カルテルが睨み合い、夜は銃と煙草にテキーラ。燻された麻薬と拘束され拷問。恐喝に女は強姦され、国の重要機関は組織の計画により蝕まれ、誤操作によって崩壊寸前。武力の対立で多くの市民が檻に入る。政府と各地のカルテルの麻薬戦争。密告が密告を生み、引っ張った芋蔓の如く次から次に、正当な司法無しに判然無しに囚われていく。ここメキシコシティ郊外の美術館は平穏である。危機は肌でその眼で、その耳が切り付けられてこそ感じるもので、戦国の世をこの世の畳の我が肘枕に安逸なる頭を載せ安穏たる縁に入りたる陽にただ黄昏ている者には当然に想像すらも不可である。

テレビ局の爆破。チワワ、オアハカ、ドゥランゴ、ゲレーロ州の麻薬廃絶を訴える市長とその家族をも殺された。2006年から2012年までに実に7万6千人が麻薬戦争によって死亡している。12月、本格的で暴力なる戦争が始まる。長年の緊張の糸は切れた。コーヒーの香りが引き立って胸がすっと落ち着く。山野の紫苑が目を閉じている。ショートヘアー、両耳にはアメジスト、弓なりに眉引いて瞑る奥二重。鼻は小さく筋が通って心臓形にぴくつく、紅が薄く一文字にくっと右斜め上方に締まる。24歳。少し疲れた顔。眼を開くると幼なさが残る。異国に女が一人寂しさが漂う気色。この目の瞑ったのが故意かはたまた偶然かおそらく後者だが、人恋しさが滲んではたと相手に伝わってしまう。 所詮は山野の紫苑であって香を聞けず摘んで観賞される事もなく、仏に共されるわけでもなく、ただ風に前後左右に吹かれ踊って雨に打たれ萎れて、太陽を臨みホオジロが飛んで、通る裾に弄ばれて露霜に立ち枯れる、川の淀んで一枚の葉が流るることも無く一点を廻る、木々から団栗が落ちて芽も出ずに息吹ことも知らずに果てる、コンドルが向こうへ戻っては来ないそれが運命である。   

2人は長閑な空間を出て来た道をかなたへと帰る。 地下メトロに乗ってPinosuarezへ乗り換え口で複数人の現地男性が「モータモータ」と叫んで付き纏ってくる。 さきは木本の手をぐいと引いてぐんぐんと進んでいく。いなくなった様だ。 メトロ一号線でinsurgentesで降りる。ホテルは近い。コンビニでミネラルウォーターを買ってお礼を言って部屋に戻る。少し休んでいると携帯が鳴った。メールで[夜ごはんは?] 返信する。夕方6時にロビーで待ち合わせをしてSalto del Aguaからメトロ8号線Garibaldiガルバリィ広場へ。夕暮れの街を抜けていく。ラッパ音が強く鋭く明快に鳴りだす。人の群れ、日本人もいる。ビウエラ、ギター、ギタロン、バイオリン、トランペット、マリアッチ楽団だ。マリアージとは結婚。チャロと呼ばれる貴族の衣装に演奏家がセレナータを奏でている。近くのカンティーナ(居酒屋)へ入って郷土料理ボソーレのスープにメインは肉料理を食べる。本場のテキーラも木本は飲んだ。さきは魚のセビッチェ。白い衣装にセーム革の透かし刺繍、銀のボタン飾り、歌手が歌う。夜、恋人の窓下で歌い奏する小夜曲。スペイン語も解らず、マリアッチの意味すらも解せず、詩歌も花も知らずに知っていたらこの小説もここで終わったかも知れないが・・・。女はよく知らぬ男とカンティーナで食事してマリアッチを聞く、この男は気づくだろうかと。

優しい姿の中にも笑うとぱっと華やいで揺れる耳元のトパーズ。男性歌手が優雅に伸びやかに雲が棚びいて夜長の中天の月へ架かる。月の明かりが眩しくって帰りにソンブレロを買って二人して被った。黒地に金の刺繍で髑髏によく似合う幅広な廂が顔をも解らなくした。21時ごろ広場は歌い踊る人ごみの中。

「おう、久しぶり。誰、友達」と中年の日本人がさきに話しかける。 

「うん」と体が自然男を避けて木本に凭れかかる。急ぐからとソンブレロを深く抑えて過去を後ろに歩く。眸が陽炎のように燃えてあるかなきかに消えた。愚命の生命は尽きるのも速かろう。汲み上がった感は誘発され逃げる場所なく胸に留まって支えるようで隣で白い息と肩が震えている。半年もあれば色々とあるだろう。酔ってはいても一は頗る冷静である。見て見ぬふりを決め込みただ横を歩いている。肩を抱くことも手を掠めることもせず、右手の建物の屋上が盛栄と夜を照らして賑やかだ。なんだレストランか。さきが受付でタクシーを呼んだ。しかし流暢に話す。英語、スペイン語他にもあるのかわからないが、人の聖域侵してはならない、触れてはならない分野がある。そこに触れれば目的を果たすこともできん。秋の空に心現を抜かせばさっと夕立が来る。白い雨が。雨はすぐに止もうが、雨を追うことは叶わない。始終無言でホテルに到着した。「楽しかった」「うんそうだね」と別れる。シャワーを浴びてベットに腰かけミネラルウォーターを飲んで、煙草の煙を輪に吐く。どの部屋にもテラスがあるようだが木本はカーテンすらも一度も開けない。携帯が鳴る。[眠れない。少し話せるかな?]返信する。[部屋に来てほしい。お願い] 503号室のドアを軽く敲いた。戸が開く中からさきがごめんと腫れた目を擦っている。暗い部屋にお香らしき煙が机の上から獅子頭のように立ち込めて前後を忘れそうに暈して壁に懸かる額のアカプルコの帆影が荒磯越しに他行く波の外に浮かんでいる。先ほどからさきはツインの奥側のベットへテラスを向いて横たわっている。足下には薄緑の両扉開きクローゼット。薄明かりにケンチャヤシが投影されて模様を描き出す。木本はというと対面の籐椅子に腰かけぼんやりと壁の鋸歯を見ている。その距離4メートル。



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