先裂けて敵陣(メヒコ)

山岡蒙太郎

第1話

 二十代初めの頃でしたが、西人町の商店街を朋友らとあちらこちらと経遊して約束の刻眼となる。

「こんばんは。はじめまして木本です、年は二十二です」目の前の女が

「なんか気持ち悪い、この人」斜向かいの女が「やめなよ、急に何て事言うの、めぐ…謝った方がいいって」

「だって…ごめんなさい」

隣で純に笑う友達が揚々と右手を上げて熱燗二合お猪口三つでと白けた雰囲気の居酒屋じゃがいもに大きな一枚机を囲んで三対三。

「今日は飲もう、飲もう」と寒きを吹く。

毛裏の衣服を壁掛けから剥ぐって一人女が帰った。

「ごめんなさいね、勝手で」また謝るまい。ふくよかな女。木本には古傷がある。何処にか。左の頬にざっくり。めぐがいったのはこのことで、小学校五年の時に崖から落ちて出来たと木本は言う。

「悪気はないと思うから気にしないでね。」

「うん。ありがとう。」数度会って食事して、当然ながら恋中になった。手を握ったり、唇を交わす。まいの温もりを知りたいと、はたと隣に座る残像が出現する。いつもの夢、印象的な記憶。

 肩が膝が上下にかすかに揺れ頭が空を漕ぐ。石鹸の匂いに右頬が掠る。ガタンと電車がゆっくり停車した。路面電車、異国の色彩の街並みを過ぎてLANORIA駅停車場。

「着いたよ」

「うん」

と彼女の背に続く。地図を片手に徒歩約3分のドローレス・オルメド・パティニョ美術館の岩石の門が現れる。赤茶と黒色の重厚な門扉を潜り中へと入る。富豪ドローレス夫人の広大な私邸を改造したものである。

「入場料は…」

「100ペソだね」

「んー」とポケットを弄る。

「どれかな」

「これとこれ」と手の平から選別してくれている。

「もうそうなんだから、チケット無くすんだよ。海外なんだし気をつけてね」

彼女はさきといって昨日会ったばっかりだ。

緑と赤白の縦縞。サボテンに留まる蛇を銜えた鷲。首都メキシコシティ。標高2240メートルで周辺部を含めると人口約2000万人の気候温暖な大都市である。年間を通して温暖な風土だがここは、高地に有るために昼と夜の寒暖差が激しい。あと15日で乾期に入る。さっきスコールが来たが1時間ほどで止んだ。酒に溺れる日々、自分探しの逃避行。二日酔いで成田からダラス経由に17時間ふらふらになってメキシコの大地を踏む。空港を出た途端にガイドブックがない事に気付いた。それに挟んだ帰りのチケットも…。パスポートを提出して入国審査を終え、空港を出ると息切れがしてとにかく頭痛がする。一旦ホテルで休憩しようとリュックを通路の端で下し、泊まるホテルに目印を付けたガイドブックを探す。そうだないんだった。疎覚えに確かこの出口付近にタクシー乗り場があった。ああこれかとすぐそこに、左右に待機所がある。左の乗り場へ…。乗車するとやけに室内が広い。何人乗りだ。しまった、これもガイドブックにあったな。HOLA!と運転手は一向になにを言っているか不明瞭で、スペイン語の辞書を頼る。目的地も伝えず街中を走っている。そういえばなんか頷いてたからか。ソナ・ロッサ。カントリーホテルへ到着。料金もよくわからん。手の平のペソ札を引いてもらう。まぁいいとにかく少し眠りたい。受付で署名してベッドに横たわる。テレビでニュースを放送している。トリオがギター、バイオリンとトランペットで歌い踊る。

「Queesesto toallmuybien megustaesto noentiendobienespanol」

「わからん」漸く安堵し一服して寝た。

 次の日の午後、1階へと下りる。ホテルラウンジのソファーで1人佇む日本人女性らしき影があり、おおと溜まらずに声を掛けた。

「あのう、すいません」

「はぁい」とこちらを上目に向く。

「ちょっとお尋ねなんですけど、いいですか?」

「いいですよ」年の頃は近い。

「時間あります」

「ええ」

「少しそのままで」と部屋に戻って後ろのポケットに残った行きの航空券の半切れなど貴重品をまとめてソファーへと、どうぞと微笑んでいる左側へと。

「さきです」

「これなんですが、これで帰れますか?」半切れを渡す。

「ちょっと待ってねええと、眼鏡は……部屋かな」航空チケットから木本の顔へ視線をじっと移す。

「ここじゃ暗くて、部屋に来れる?」

「え、いいんですか」

「じゃあついて来て」席を立つ。ドアを入ると奥に長い。木本の部屋の倍はあろうか。カーテンが開いて影がベッド隅のケンチャヤシの羽状複葉を浮かせる。ベット脇で黒縁眼鏡を掛けた彼女が半切れを目許一杯に寄せて見ている。今度は携帯を取り出して誰かと英語ないしスペイン語を織り交ぜて悠長に話す。それをただ戸を背に立っている。怪訝が背筋を走る。ひょろ長い2本足、同じく胴胸首筋。頭には鍔広な帽子。さきはベッドの端から床をとんとんとゆっくりと歩く。向こうを向いてベットを机代わりに正座して何かを紙に書いた。異国の陽にぼわんと黒髪がまばらに散って淡紅色を帯び秋風に紫苑の如くに右に左にふわとやさやさし雅なった面影がきらりとする。まいは逝ってしまった。

「ごめん、待たして。大体分かったよ。結論から言うとこれじゃ無理みたい」

「どうしたら…」

「任して、明日一緒にチケットセンターに行くから。場所もほら」

「ありがとう」

「いえいえ」

「どうしたら…お礼できるかな」

「そんなのいいのに」

「でも…実は初めての海外で心細くってそれで」

「んーじゃあ夕飯でどう」

「うん」

「よし。5時に下のロビーで?」

「わかった」

それから近くの屋台でタコスとワカモーレなるオードブルをトルティージャチップスにのせて2人で食べる。食感がぱりとアボガドのペーストがしっとりチーズと濃厚な味わいで美味しい。すぐに唐辛子が効いてくる。香辛料が違うのか耳の後ろに汗が出る。野菜の葉裏をちゃんと確認すること。虫がいるらしく日本人は極度の腹痛と下痢に見舞われる。と色々親切に教えてくれる。さきは旅行が好きでよく世界各地を回っていると言う。宵になると冷えて息が白い。

「明日も付き合って。ここに行きたかったんだ…」

「うん、わかった」

明朝から合流する。ホテルを出て北へ4ブロック新市街の主要なレフォルマ通りに突き当たる。さきは歩幅が狭い割には早く歩く。西側ロータリーには英雄が眠る独立記念塔が高さ36メートル天使を頂いて聳え立っている。右に折れてREFORMA300CSCへと入る。少し待っててと受付でさきがちらとこちらを振り向きながら、紺のスーツレディと頻りに話している。

「オーケー、オーケー」と来る。

「再発行の料金がいるみたい」

「うん、払うからお願いします」

15分程待ってチケットが発行された。

「おお、ありがとう。助かりました」

「いえいえ」微笑んで「これからちょっと付き合ってね。ずっと行ってみたかったんだ」とメトロで美術館へと向かった。

 邸内は広く閑散として熱帯植物が茂る。雄の孔雀が羽根をしだしだと扇状に達して、先端の眼状班がいくつもこちらを察しているように私を見ている。メキシコを代表する女流画家フローダ・カーロ。けがや難病、複雑な家庭環境。結婚生活と47年の生涯は映画のようだった。一説には自殺ともいわれる。自画像が大半である。乗り合いバス。2人のフリーダ。夫と妹の背信に痛みを表現した、ちょっとした刺し傷。木本の目があっと釘ずけになった。ナイフを持った黒い男。ベットに横たわるうねり狂う女の血まみれの裸体。右足に残るストッキングと黒のハイヒール。他人を解する痛みとそうじゃない痛み。絵画を背けたくなる嘆き。腹の底臓物を喉から吐き出さんとする蠢き。魂を揺さぶる籠の鳥。

まいはこの絵画に何を見たのだろうか。

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