第1話 夜の屋敷と紅い依頼

「夜の潮風っていうのも、気持ちいいものね」


 サクヤ達が降り立ったのは、目的の町の港だった。

 この町は海に面しているために漁業が盛んで、朝から昼にかけては漁師や買い付け客でごった返すが、夜は全くと言っていいほど人気がない。波も穏やかなものだ。


 岸辺に停められた漁船や客船を眺めて、湿った風に当たっていた彼女がやがてきびすを返す。その淡い金髪が月明かりを浴びて輝いていた。


「さぁ、こっちよ」


 行く道に人の影はなく、灯りと声が漏れているのは遠くの酒場ばかりだ。


 空の上に浮かぶ城に住む彼らにとって、海とは眼下に広がる景色の一部だった。近くで見ることが滅多にないイルヤとラクセスもしばらく目を奪われていたが、導く声に逆らうことはない。

 しばらくしてサクヤが足を止めると、そこに建っていたのは大きな屋敷だった。


「ここよ。素敵でしょ?」

「へー、思ったよりデカいや。ボロいけどさ」


 イルヤの感想通り、壁にはつたが縦横無尽に走り、庭は無差別に木々が生い茂っている。長年買い手が付かずに放置されていたというのは本当のようだ。


「ここをお買いになったのですか?」

「えぇ、そうよ」

「どうして、また……」


 ラクセスの声には非難の色が混じっていた。

 当主に内緒のことに違いないだろうという点もだが、荒れ果てたこの建物を買って、サクヤはどうしようというのか。これからを考えると頭が痛む。

 しかしその痛みも次の言葉によって吹き飛んでしまった。


「だって私の住んでいた家ですもの。本当なら手放したくなんてなかったのよ」

「……失礼しました」


 はっとしてすぐに頭を深く下げると、ぼんやりと眺めていたサクヤがおかしなものでも見たみたいに目を丸くした。


「あら、どうして謝るの? 別に悪いことなんてしていないのに」


 変な子ねぇと笑った。先ほど見せた郷愁など、最初からなかったかのようだ。

 キィと音を立てて門を開き、三人は敷地内へと入っていく。サクヤが悪戯な笑みを浮かべて懐から鍵を取り出し、開いた。全ては深い時刻の出来事で、闇に溶けて消えていく姿を誰も見てはいなかった。


「何かあるといけませんから、お二人は私の後ろへ」


 ランプは一つきりであった。油がたっぷり入ったそれをラクセスがかざし、先頭に立って歩みを進める。他の二人は夜目が効くため、明かりなど必要がない。

 夜のカーテンさえ閉め切られた建物の中では、吸血鬼達の目は仄かに光を放っていた。


「あれは……」


 冷たい色彩を放つ床を踏みしめるたび、埃が立つ。

 最初に目に飛び込んできたのは、正面の幅の広い階段と踊り場に飾られた一枚の肖像画だった。


 どこかで見たことのあるような、笑顔の女性を描いた油絵。こちらを見つめる柔らかな瞳が印象的である。


「奥様、ですか?」

「いいえ、私の娘よ」


 ぎょっとしたのはラクセスだけではなかった。イルヤもサクヤを見つめている。しかし、彼女はふっと笑顔に戻っただけで何も言うことはなかった。


「じゃあ、まずは一階から回りましょうか」


 そうして一通り中を見、あちこちでサクヤが「懐かしい」を連呼してから、二階も同様に回って今夜の探検はお開きとなった。


「随分と賑やかね」


 サクヤはその後も昔の面影を探すように何度も地上に折り、町へも繰り出した。

 フード付の白い外套を上からすっぽりと被って、昼も夜もお構いなしに遊びまわった。言うまでもなく、イルヤとお目付け役のラクセスも一緒にだ。


「あっ、奥様、お待ち下さい。イルヤ様も、私から離れることのございませんようにっ」


 前を歩く二人は放っておくと何をしでかすか分からない。

 動き全てに目を光らせるラクセスを振り返り、イルヤが悪戯っぽく笑った。手をひらひらさせながら言う。


「ラクセスも、俺らの世話ばっかりしてないで遊べば?」

「そういうわけには参りません」


 連なる店に人々の声、往来の足音。身の回りには存在しないものばかりだ。サクヤとイルヤはそれらに逐一触れ、騒ぎと聞けばいちいち足を突っ込んだ。

 つくづくといった口調でサクヤが呟く。


「宝石や財宝に囲まれて暮らすより、人間を眺める方が万倍も楽しいわねぇ」


 微笑むとフードの下から鋭い牙がのぞく。明かりを受けて、それはオレンジ色に光った。



「はぁ」


 その知らせを持ってきたのはイルヤだった。彼は闇色の瞳を輝かせて、まずはサクヤのところへ行き、それから二人してラクセスを連れに来た。

 彼女はちょうど屋敷の一室でお茶の用意をしているところだった。


「ワインの調達、ですか?」


 一度湯で温めておいた白いカップに、数分間蒸らしてから注ぐ。花の香りがふわっと、客間の隣に設置された小さな湯沸し場に溢れる。

 煌々と照らす太陽の下で働けることが少ない彼女達は、自然と視界以外の刺激に敏感になる。


「えぇ、そうなの。イルヤがルーシュ君のところのお父様から頼まれたんですって」


 ルーシュ。ラクセスはその名前に聞き覚えがあった。イルヤ達にとっては親類にあたり、数年前には妹である長女が誕生していたはずだ。

 サクヤが祝いの品を持っていったことは記憶にまだ新しい。


「今度、奥さんの誕生日パーティーをするんだってさ。で、余興にワインが要るっていうから、俺がその準備を引き受けてきたってわけ」


 数日前、イルヤが一人で遊びに出て行ってしまったことがあったが、なんとも珍しいところへ出かけたものだとラクセスは思った。

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