◆サスファの驚き◆

 サスファが宿へ戻り、ディーリア達の無事を伝えると、留守番をしていた宿屋の青年・ヴァロアも一息ついた表情を見せた。


「妹さんが無事でよかったですね」


 息を切らせて帰ってきた彼女が、カウンター横に設置されたこぢんまりとしたスペースへ腰掛ける。軽く食事が出来る、テーブルと椅子があるだけの空間だ。

 ヴァロアの、ティーカップを置こうとした手がピクリと止まった。サスファが不思議に思って見上げると、彼は苦笑混じりに「違うんです」と言った。


「兄妹じゃないんです」

「え? 違うんですか?」


 てっきり、宿を切り盛りする兄妹だと思っていたサスファは虚をつかれた。

 カップに手も伸ばさず、ぼんやりと青年の顔を見やる。言われてみれば二人はあまり似ていない。


「私は少し事情があって、ここに置いて貰っているんです」

「そう、なんですか」


 不躾だったと謝ると、彼は笑って許してくれた。それでも足りない気がして、サスファは自分も似たようなものだと弁解する。

 ようやくお茶の香りが鼻へ届いた気がした。


「私も、勤め先の皆さんが優しくして下さって、家族みたいな感じがしてます」


 それがたとえ人にあらざる者に仕える身であったとしても。言外に含んだ意味を飲み込むように、カップを傾けた。温かいそれが、ノドを通って胃を満たしていく。


「それで、二人は何処に?」

「ふふっ。町の子達と一緒に……。あ、場所は内緒って約束しちゃったので、教えられないんです」


 可愛らしいイリスの楽しそうな様子を思い出し、笑みが零れる。口元に指を立て、笑うサスファを彼も咎めはしなかった。それを許さなかったのは別の声である。


「いや、話してもらわないとこっちが困る」

「えっ」


 戸が開く音と、入り込んできた風に振り返る。ゆっくりと立ち昇っていた湯気が押されて建物の奥へとなびく。

 立っていたのはフードを目深に被った紫のコートの男で、彼が何者なのかに気付くまでに数秒を要した。


「ルーシュ様っ!?」


 慌てて立ち上がったせいで、がたがたっと椅子が倒れかけ、ヴァロアがそれを押し留めてくれた。


「よぅ、そこの兄さん……ヴァロアって言ったっけ? 早いところお嬢さんを連れ戻さないとマズイことになるぜ?」


 近寄ってくるのに合わせて、うっすらと鼻をつき始めた匂いにサスファはドキリとした。あまりに馴染んだ、血の香り。明るいこの宿には不似合い過ぎるものだった。


「まさか」

「あぁ、食事なら済ませてきた。そろそろイリスにも喰わせてやらないとな。ま、問題はそれだけじゃないが。……町の空気が変わったのに気付かないか?」

「空気、ですか?」


 何だろうと思って外へ出てみると、確かに違和感を覚えた。なんだろう、異質な気配がする。


「奴らが動き出したんだ。ったく、こんな昼間から始めやがって。ひとの迷惑くらい考えろっての」

「『奴ら』?」


 空気がふっと呼吸を止めた。かと思うと、次の瞬間、強い風となって吹き付けた。


「きゃっ」


 髪に砂埃が入り込んできて、サスファは異質なものの正体を悟った。

 この風は乾きすぎていて、潮の匂いが全くしないのだ。遠くに聞こえていた人々の喧噪も、今は耳に届かない。


「誰も、いない?」


 導き出される恐ろしい結論に半信半疑の思いでルーシュを見ると、彼は自嘲的に笑って言った。


「そんなにハラが空いてるのかねぇ?」


 サーッと音を立てそうな勢いで血の気が引いていく。これは闇の生き物の仕業だ。混乱しかける思考の隅で、本能が警鐘を鳴らした。


「死にたくなかったら、俺の傍を離れるなよ」


 一瞬目を離した隙に、ルーシュの表情はガラリと変わっていた。舌打ちしかねない、怒りを秘めた瞳でこちらを見ている。でも、その怒りの矛先は自分ではない。

 すっと近付かれたかと思えば、囁かれた。


「お前やフォルトは特に狙われやすい。そのことを忘れるな」

「え?」

「何百年と俺達に仕えてきたお前らの血は特別なんだ。……旨いんだよ」


 ノドの奧でひっと声が鳴る。


「おっと、呑気に喋ってる場合じゃなかったな。……で、何処にいる?」


 こちらに口を挟ませずに一気に語った彼は、再び楽しげな口調に戻って笑った。

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