◆ルフィニアの溜め息◆
一方、イリス達が旅立ったあとの空の城は、静まるどころではなかった。
ルーシュとイリスの母、つまり当主夫人の誕生日が近く、その日を盛大に祝う為の準備が進められていたからだ。
外から見れば雲に浮かぶ塔の群に見えるその建物は、どこも慌ただしい足音と話し声に溢れていた。
「あぁもう。溜まった仕事が片付けられると思ったのに!」
塔同士を上層で繋ぐ渡り廊下を物憂げに歩きながら、イリスの教育係を務めるルフィニアは何度目かのため息をついた。
カツカツと鳴るヒールの音も、いまひとつ精彩を欠いている。
「どうして私がこんなことを……」
細い腕に抱えるのは大人の背丈ほどもある巻物状の布で、広げれば緻密に刺繍が縫いこまれた価値の高い一品だった。
「あぁ、失礼」
調度品の設置場所について相談しあう者達とすれ違う。こうして謝罪するのも何度目だか分からなくなってきた。
ルフィニアは教材等の準備で忙殺される日々から解放され、自分のための時間が持てるかと期待したのだが、現実は厳しかった。
人員が慢性的に不足しているこの状況下で、悠々自適などあり得ない。すぐさまお呼びがかかり、荷物運びやら段取り決めやらに借り出されてしまったのだ。
「私もフォルトに付いていけば良かったわ」
そうすれば、少なくともこの腕が
フラフラした足取りで廊下を渡り終え、円柱形の塔の一つに辿り着く。
「絨毯をお持ち、しました」
仕事は迅速・正確に、を信条にしている普段の彼女からは想像も出来ないよれよれ姿で目的の部屋へ到着した。
両手は重い布で塞がっていて扉を開けることが出来ないため、中へ向かって声をかける。しかし、息切れ交じりの弱さでは全く届かなかったらしい。
再度声をかけようと息を吸い込みかけ、扉の向こうから聞こえる話し声が尋常ではないことに気がついた。
「喧嘩……?」
扉は厚く、何を言っているのかまでは聞き取れない。かろうじて分かるのは罵倒する男の声と、される側らしき女の声だけだ。
「この忙しい時に。誰よ、油を売ってるのは!」
口から出た呟きは腹立ちだった。こっちはこんな重たい物を持たされてイライラしているのに、呑気に痴話喧嘩だなんて非常識だ。
文句を言ってやろうと布の筒を扉にそっと立て掛けた。お高い品だが、その分丈夫だ。これくらいで傷んだりはするまい。
「ちょっと!」
がん! 鈍く耳の奥を揺さぶる音が、内と外とに響き渡った。中の気配も水を打ったように静まりかえる。
「こっちは忙しいのよ。馬鹿騒ぎしてないで開けて頂戴!」
畳み掛けるようにして叫べば、口論していた誰かが近寄ってきて扉を開けてくれた。強い風が吹いていた外とは、いくらか温度の違う空気に包まれる。
「え?」
その人物を目の当たりにして、ルフィニアは呆気に取られてしまった。
「騒がしくしてすみません。あ、持ってきて下さったんですね。ご苦労様です」
苦笑いを浮かべていたのは、ルーシュの元へ行っていたはずの秘書・ウィスクだった。
物静かな印象しか受けたことがない彼と、先ほどの勢いが頭の中で結びつかず、しばし混乱する。ふつふつと煮えていた怒りはとうに消え去り、すぅっと全身から体温が消えていく。
「あの?」
「……! す、すすすすすみませんっ! ま、まさか先輩がお話中だとは思わず……。し、失礼しましたっ!!」
全身からだらだらと汗を吹き出しながら、深々と頭を下げる。ウィスクとは年齢的にはさほど差がないものの、彼の方が立場はずっと上だ。
従者達は基本的にフレンドリーな付き合いをしてはいるが、上下関係は厳然と存在する。次期当主候補の秘書を怒鳴るなど、もってのほかだ。
恐ろしさに目を瞑っていると、困ったような声が降ってきた。
「こちらが悪かったのですから、どうかお気になさらず。それでは、この絨毯はお預かりしますね」
「は、はいっ。失礼しましたっ」
結局、怖くて顔を上げられないままに扉が閉められた。足音が遠ざかっていくのを確認し、すぐさま自室に足を向ける。
本当は次の指示を仰がなくてはならないのだが、どうしてもそんな気分にはなれなかった。
「もう、あんな失態。信じられない」
階段を駆け、渡り廊下を走り、自分の部屋の前まで来た時、ふと口論の相手が誰だったのかが気になった。高い声と、ちらりと見えた靴は女性だったはずだが、特定は出来なかった。
「あの声、どこかで……」
心臓はいまだに早鐘を打っていて、吐く息も切れ切れだった。
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