第3話 宛名の人物
「お手数おかけします」
翌朝、カーテンをきっちりと閉めてから、俺は宿にイリスを残して一人で出かけることにした。その際、昨晩受付をしてくれた青年――ヴァロアというらしい――に、イリスのことは頼んだ。
本当は連れて歩きたいのだが、今日は生憎朝から快晴だった。極力、イリスは日の光に当たらない方が良い。散々悩んだ末、置いていく結論に達したのである。
「構いませんよ」
ディーリアと共に暮らすヴァロアなら、女の子の扱いにも慣れていそうだ。俺が割増料金を払って依頼すると、彼は笑顔で請け負ってくれた。
「届け物をするだけなので、そんなに時間はかからないと思います」
ディーリアの姿は見かけなかった。まだ早朝の時間帯だから、きっとまだ眠っているのだろう。
「えーと、こっちか?」
新しい日を迎えんとする町は、夜とはまた違った側面を見せた。
煉瓦が朝日を浴び、家々の壁も屋根も目を覚ましたかのように輝いている。表通りの方からは店のテントを立てる音が聞こえてきた。
俺は
「あふ……」
地上とは違う生活時間に慣れきってしまった体は重い。昨夜もそれほど眠れなかったので、眠気に拍車をかけている。
目をこすりこすり、地図とにらめっこしていても、たまに視界がぼやけ、足もふらつき気味だった。
「もっと寝ておけば良かったかな」
体調が悪い原因は他にもある。イリスにせがまれて血を分け与えていたのだ。
だから、これは……目眩だ。
「……う」
目的地まで半分ほど来たところで、世界がぐにゃりと歪んだ。足に力が入らなくなったかと思うと、ふっと意識が途切れかける。
倒れそうになった俺の体を支えたのは、誰かの力強い手だった。誰だ?
「おい、しっかりしろ。ンなところで何やってるんだ、お前は?」
「うぅ?」
乱暴に体を揺さぶられ、紫の何かが目に飛び込んできた。
「軟弱な奴だな。そんなので良くイリスの相手が務まるもんだ」
「っ!?」
主人の名に一気に覚醒する。と、紫色のものがコートで、自分を覗き込んでいる顔が良く知った相手であることに気が付いた。
「ルーシュ!? お前、どうして」
「ようやく起きたか。ったく、しょうがないねぇ」
腕を掴み、声をかけていたのはイリスの兄であるルーシュだった。
妹と同じく、フード付きのコートを足元まですっぽりと着込み、黒いサングラスに白手袋をはめている。
「怪しい格好」
「うるせェよ」
本人も自覚があるのか、ぎろりと睨み返してきた。その紅い瞳も妹そっくりだ。
確かに陽光から身を守るためには仕方がないけれども、知人でなければ完全に不審人物と認定したに違いない。
……いや、知人でも不審人物だな。
「はぁ、とにかく助かった。礼を言っとく」
「そりゃどーも」
身体をなんとか起こし、砂やちりを払ってからルーシュに向き直る。こうして立ち上がると、日が裏路地にまで入り始めているのが分かった。
彼が数歩後ずさって、残された僅かな日陰に逃げ込む。
建物の影という、くっきりとした線によって空間が切り取られると、お互いが違う生き物だと知らしめるような気がした。
「じゃあ急ぐから」
言いながら、反射的に胸元へ手を突っ込むと、あるはずの手紙がないことに気付いて全身から一気に汗が噴き出た。
「あぁ、コレだろ。ばっちり受け取ったから安心しろ」
「えっ?」
真っ白になった頭で見れば、ルーシュが
「お前っ、なんてことを!」
「どうどう、良く見ろよ」
怒りかけたが、ルーシュが見せ付けてきたその手紙の宛名が目に入ると脱力せざるをえなかった。
外側は白紙で、届け先しか教わっていなかったのがまずかったのだ。
「そ。この手紙は親父が俺に『帰って来い』ってクドクド言ってるシロモノなんだよ。ったく、俺がどこにいるのか完全に把握してやがる。気にくわねぇなぁ」
「気にくわないのはこっちだ。お前宛ての手紙だって知ってたら届けになんて来なかったっての」
シリアの策だろう。まんまとはめられてしまった。
「帰ったら一言いってやろうぜ。俺は親父に、お前はシリアにな」
「賛成。珍しく気が合うな」
身分から言えば、当主の子息であるルーシュは俺が
けれども、幼い頃からオモチャにされまくってきたせいで、どうしても頭を下げる気にはならない。
「で、イリスを放って、一人で観光か?」
「そんなわけないだろう」
態度も相変わらずで、いつまで経っても一人前として見られた気がしない。もっとも、本来の間柄に戻るなど今更考えられないことだが。
そのルーシュもイリスの同行は知らなかったようで、酷く驚いていた。
「おいおい、親父がよく許したな」
「というか、連れて行くようにこっちが命令されたんだ。……そうだ、早く戻らないと」
話しながらも来た道を二人で戻る。裏通りに人気がないのは変わらないが、表通りの方向からはざわめきが聞こえてきた。
人々の話し声や生活の物音が波のように寄せては返す。まるで音の海だった。
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