第2話 宿屋の少女
「二名さまでよろしいですか?」
「あの、大人の方は……?」
相手はまだ子どもだ。このまま手続きしてしまうわけにもいかないだろう。慌てて問いかけると、応じたのは少女ではなかった。
「ディーリア? もう寝ないと」
奥の、店員用のスペースらしき扉から出てきたのは背の高い男だ。こちらは二十代前半、つまり俺と同年代かやや下くらいに見える。
肩下まで伸びた髪も印象的だが、纏うように身に着けているマフラーの長さが目を引いた。
赤い服に白のエプロン姿の、ディーリアと呼ばれた少女とは対照的な、全体的に色を抑えた服装だった。
「え~、いいでしょ? まだ眠くないよ」
「お客様、失礼しました。二名様でよろしいですか?」
「は、はぁ」
呆気に取られていると、ディーリアが「その子だってまだ起きてるじゃない」とイリスを指さし、「人を指さしたら駄目」と男性に
それ以上食い下がっても無駄だと悟ったのか、彼女は口を尖らせながらも奥へと引き下がっていった。
「それではお部屋にご案内いたします。お荷物をお持ちしましょう」
「いや、結構です。持ってもらうほどの荷じゃありませんから」
「分かりました。ではこちらへどうぞ」
涼しい目元の青年に連れられながら、俺は内心胸をなで下ろす。脇に抱えた小さな布袋の中身は、他人には見せられないからだ。
「こちらになります」
受付カウンター横の階段を上がり、すぐ手前の部屋へと通される。ベッドが二つにチェストが一つ、そして小テーブルがある。
ベッド上には窓があり、今はカーテンがぴっちりと閉められていた。朝には日の光が降ってくることだろう。
「明日の朝食は御入用ですか?」
「お願いします」
ざっとした説明を受け、早々に出て行ってもらうと、俺はカーテンを開けて外を眺めた。今夜はやはり月が細くて薄暗い。去り際に手渡されたランプの灯りも、差し向けた枕元だけを照らしている。
「ふっかふか!」
「危ないですよ」
ベッドにダイブして遊んでいたイリスも、外を見ると静かになった。夜目がきく彼女には、町の様子が隅から隅まで見えているのかもしれない。
「フォルト、いつまでこの町にいるの?」
「明日、届け物をしてきます。そうしたら夕方頃から町の中を見物して回って、夜には帰る予定ですよ」
日の光に弱いイリスは、日中はあまり外へ出られない。出歩こうと思えば日が沈みかけた頃合いが一番良いだろう。
「もうかえっちゃうの? つまんない」
「またそのうち来られますから、ね?」
「むー」
雪玉みたいなふくれっ面を見ると、先ほど出会ったディーリアという少女を思い出す。子どもの駄々というものは、人も吸血鬼も同じらしい。
そんなことを考えていた時だった。とんとんとん、という音が聞こえたのは。
『!?』
それはノックの音で、落ち着きかけた心臓がドキリと跳ねる。俺は再度イリスにフードを被せ直し、「どなたですか」と問いかけた。
「わたし、ディーリアです。お客さん、ちょっといいですか?」
奥へ引っ込んだはずのディーリアが、何故か部屋を訪ねて来たらしい。一瞬、素性を不審がられたのかと慌てたけれど、相手は子どもだ。考え過ぎだろう。
「寒くないですか? ホットミルクをどうぞ」
招き入れると、彼女は言葉通りホットミルクを持ってきてくれた。暖かくて優しい香りが部屋に漂う。小テーブルに置き、ドアを閉めれば空気の流れも消えて、湯気がまっすぐ三本並んで立ち始めた。
カップが三つということは、「ご一緒したい」という意味だろう。どうせすぐに眠る予定でもなかったし、まぁ良いかと受け入れる。
「ありがとー」
「体が暖まるよ」
触れてみると、ミルクの温度もちょうど良い。
イリスが白いカップを両手で包むようにして飲むのを見守りながら、ディーリアも自分のミルクを一口飲み、唇を湿らせてから言った。
「二人は兄妹なの?」
砕けた言い方は、こちらに興味がある証だろう。それにしても、いきなり踏み込まれた。ここは慎重に返答しなくてはならないが、嘘で塗り固めない方が良さそうに思えた。
「違うよ。こちらは俺が仕えている屋敷のお嬢様で」
「イリスだよー。よろしくね」
「よろしく」
二人はカップで温まった手を握り合う。
「どうしてそんなものを被ってるの?」
不思議そうに言って、今度はディーリアがイリスのフードの奥を覗き込もうとしたので、俺はさっと手で制した。
「い、イリス様は家のしきたりで顔をあまり人前にさらせないんだ。遠慮してもらえるかい」
「そうなの? ごめんなさい」
正直、かなりドキッとした。今は瞳の上半分まで布で隠れているが、覗かれれば耳まで見えてしまう。
「お兄さんはフォルトさんていうのね。名簿に書いてあったのを見たの。キレイな字ね」
「ありがとう。君はディーリアさん、でいいのかな」
「ディーリアでいいよ。ねぇ――」
「あぁ、イリス様。飲み終わったんですね」
暗に区切りを付ける意味で声をかけた。話は明日にでも改めてと申し出ると、ディーリアも「じゃあまた明日ね」と退室する。残ったのは甘いミルクの香りだ。
「お城のことは話しては駄目ですよ。それから、正体を悟られるようなことも」
幼いイリスに分かるだろうか。彼女はこてりと首を傾げてから、「んー、わかった」と返事をした。……うーん、心配だ。
「ほかのことはお話してもいい?」
「そうですね……」
彼女は家族や親族、そして従者以外の者と話した経験がない。
ディーリアという自分と近い年の女の子と出会って、友達になれるかもしれないと期待しているのだろう。ディーリアの方も、それを望んで顔を出したに違いない。
「良いですけど、本当に気を付けて下さいよ」
経験させるべきか、止めるべきか。俺には難し過ぎる問題だった。
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