第1話 任された届け物

 届け物の仕事を頼まれたのは、大事な催しを数日後に控えた忙しい時期だった。

 と言っても、イリスの世話係である自分には、その喧噪けんそうは当日まで半ば他人事に過ぎなかった。が、そのせいで人手が足りていなかったのも事実だった。


 イリスの父親である城の当主の秘書から、その命令は伝えられた。

 届け物は一通の手紙。白い封筒で、裏にはロウを垂らした上から当主の印がしっかりと押してある。少々扱いに苦労する品だ。


「確かにうけたまわりました」


 しっかりと懐へしまってから詳しい話を尋ね、送り先が地上だと聞いた時には本当に驚いた。

 この城は幾つもの塔が連なって出来ており、その姿は地上のどこからも見ることは出来ない。建物が空高く浮かぶ雲の上にあるからである。


「な、何ですって?」


 しかし、ついでにと頼まれた用件の方が、余程俺に衝撃を与えた。


「だから、旦那様が“イリスも一緒に連れて行って、社会勉強をさせるように”と仰ったんだ」


 聞き返したいがための言葉ではなかったのに、秘書を務めるシリアは髪を払いながら同じ台詞を繰り返した。

 間違いなく、本題より重たい任務がオマケとしてのしかかった瞬間だった。


「ほんと? 本当について行ってもいいの?」

「本当ですよ」


 イリスは大喜びだった。城からほとんど出たことがなかった幼女は、突然舞い込んだ朗報に文字通りピョンピョンと飛び上がった。


「良かったですね」

「えへへ」


 何度も同じことを確認して、ちょっぴり自分の白い頬をつねって、夢でないことに笑みを溢れさせる。

 教育係のルフィニアにも手伝ってもらい、早速に準備を始めたかと思うと、俺を急かしてきた。



 ――そこで今に至る。地上に降りるには幾つかの方法があるが、自分が使える手段はこれだけだった。

 死ぬほどヒヤヒヤさせられるのが嫌だというのも、進んで従者が外界に出向かない理由の一つではないかと思う。


「あれはなぁに?」

「あぁ、あれはですね」

「ねぇ、こっちのは!?」


 腕の中で好奇心を爆発させているイリスは、キョロキョロと辺りを見回して説明を求めてくるだけでなく、手足をジタバタさせるから非常に困る。どれだけ注意しても無駄だった。


「っと、そろそろ町ですね。この辺りで降りて、あとは歩きましょう」


 足の下を景色が凄いスピードで過ぎていく。森を抜けて林を過ぎ、草原の向こうに人工の灯りがチラつき始めたのを見とめて言った。


「もうちょっとのってたら駄目?」

「他の人が見たら、びっくりしますからね」


 手で縄を二回引っ張ると、空のブランコはゆっくりと下降しはじめる。

 そのまま人気のない街道のすみに着地すると、イリスを先におろし、再び縄を二回引いてコウモリ達を空へ帰した。


「はー、生きた心地がしなかった……」

「たのしかったねー!」

「そ、そうですね」


 久しぶりの大地は、心なしか暖かく感じられる気がした。自分が人間である証拠なのかもしれない。


「はやく行こ!」

「あ、待って下さい、イリス様」


 小さな手をしっかりと繋ぐと、彼女は走り出そうとばかりに強く引いた。その勢いに前のめり気味に付いていきながら、首を巡らせる。……大丈夫だ、誰もいない。

 しばらく歩いて町へ近づくと、ふわっと何かが空気に乗って届いた。湿気しけたそれは、きっと潮の香りだろう。


「何のニオイ?」

「ここは港町なんですよ。だから、町の反対側には海が広がっているはずです」

「うみ? ……うみ! 見たーい!」


 小さな鼻をひくつかせていたイリスは、海と聞いて瞳を輝かせた。はしゃぐのも無理はない。絵本で読み聞かせたことはあったが、これまで実物を見たことはなかったのだ。


「行ってもいーい?」

「お仕事が済んでからなら構いませんよ」


 潮風を受けても浸されることのないように、独特の染料が塗り込められた石の壁が連なる家々。軒先に下げられた灯りも今は吹き消され、月明かりにその影を映すのみである。


 昼間は活気に溢れる商店のテントもすでに畳まれ、大通りはひっそりとしたものだが、いくらかの店は夜でも煌々と火をき、油を注ぎ続けて客をもてなしているようだった。


「良かった。宿は開いているみたいだ」


 俺は渡された地図を頼りに歩き、「それ」を見つけて思わず安堵の息を漏らす。

 表通りからやや奥、夜のざわめきを薄れさせるのには程良い距離に宿屋はあった。厚い木戸の斜め上にはランプの火があり、夜中でも客を受け入れるという意思表示に相違ない。


「あ、お客さん?」


 窓から明かりがもれないのは、二重のカーテンのせいだった。宿の中は予想以上に明るく、俺は目を細めてイリスのフードを更に深く被せてから、声のした方を見やった。


「いらっしゃいませ」


 長いカウンターがあった。その奥に鍵や書類を管理する棚が並び、人影がぽつんと一つ。光に慣れた瞳をしっかりと開く頃には、その人影をもはっきりと捉えることが出来るようになっていた。


 女の子がにこにこと微笑んでいる。歳はやっと十を越えたあたりか。

 柔らかな青い髪をツインテールに結い、暖炉の火が燃え移ったようなオレンジの瞳でこちらを見ている。この宿屋の娘だろう。


「おへや、あいてますか?」


 フードでくぐもった声で尋ねたのはイリスだ。夜中にも関わらず元気そうな少女は、ぎりぎりまで身を乗り出して、「はい、ありますよ!」と答える。ペンと名簿を差し出し、書き取る姿勢を取った。

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