エピローグ
「お屋敷……いえ、『城』が浮上する動力源は、あなた方の想いです」
『想い?』
夫に支えられているレイテと、彼らの隣に立つルデリアが同時に問い返した。逆にやはりか、という思いが俺の心に広がり、そっと視線を落とす。
「空に浮かぶ楽園は契りの証です。どちらかが想いを絶つ時、この城は再び地上に降りることになるでしょう」
人と共に時を重ねていくことを選んだ吸血鬼。闇の生き物に寄り添う道を選んだ人間。
そのどちらかが相手を必要としなくなった時、城もまた役目を終えるということだ。
「
言ってオルトがローブの下から差し出したものを見て、俺もルーシュも目を見開く。それは、執務室にあったあの巻物だった。この期に及んで、よく似た別物のはずはない。
オルトは優しくレイテに巻物を手渡して微笑んだ。ふわりと空気が動いて、またあの清々しい香りが体をすり抜けていく。
「新たな命が生まれる度に、名前が記されます。子々孫々、この契約が忘れられないために。他にもいろいろお付けしておきました」
少年は冗談めかして囁く。受け取ったレイテはやつれた顔を引き締めて頷き、胸に大事そうに抱きしめる。
あと僅かしか残されていない時間を、一秒でも取り零さないようにするみたいに。
「さぁ、はじめましょう」
それを合図に、城をぐるりと囲うように書かれた円と、周囲の不思議な文字が赤い光を放ち始めた。
ルデリアとレイテ一家が円の中に入ったのを確認して、オルトが他者には聞き取れない言語を紡いでいく。
やがて大地が静かに地響きを始め、城がいよいよ浮上するのを悟った。
「ちょっと待てよ。俺達はどうするんだ?」
俺は焦った声をあげた。ここまで来て事態を飲み込めていないほど馬鹿じゃないつもりだ。
この世界が異世界などではなく、ずっとずっと昔を、己のルーツとも呼ぶべき過去を垣間見ているのだと気付いてはいる。
でも、だからといって何もせず眺めていていいのだろうか。
「見送ればいいだろ?」
ルーシュはこともなげに言い、事実、城は周辺の地面ごと奇妙なほど静かに浮かんでいく。ぱらぱらと落ちる欠片だけを地上に残して、絶対に動くはずのないものが目線の高さにまで昇っていた。
「フォルトさーん、ルーシュさーん、イリスさんもお元気でー!」
ルクレチアが大声をあげ、皆が笑顔で手を振っている。イリスが「ばいばーい!」と叫んで両手をぶんぶん振り回しながらピョンピョン跳ねる。
「ほれほれ」
「……わかったよ」
促され、自分も手を振り上げた。途中、ちらりとオルトに目をやると、唇だけは言葉を紡ぐために震わせながら、こちらに微笑みかけるところだった。
その瞳に見詰められた刹那、舞台の終わりのように世界が暗転した。
◇◇◇
ようやく元の世界に戻ってきたのだと、漂う重厚な空気が教えてくれた。当主の執務室は、最初から何もなかったかのように、厳かに佇んでいる。
「やっと腑に落ちたってカオしてるな」
「……まぁな」
俺はまだぼやけた焦点のままで呟き、大きく息を吐いた。長い旅にでも出ていたかの如き疲れが、体にのしかかっている。
「あれ? おそとは?」
「帰ってきたんですよ、イリス様。楽しかったですね」
また走り出してしまわないように小さな手を握って話しかけてやると、幼い主人は「うん、楽しかった!」と大きく頷いた。
彼女にとっても大いに意味のある旅には違いなかったが、きちんと理解するまでにはまだ長い時間が必要そうだ。でも、今はそれで良い。
それにしても、イリスを連れて無事に帰ることをあれほど望んでいたはずなのに、どこか物足りない気がするのは何故なのだろう。自分でも不思議だ。
「で、そういうお前は、いつからわかってたんだよ」
今度はしっかりとルーシュを見据え、探る瞳を向ける。
「別に俺だって全部察してたわけじゃないさ」
「ほんとかよ」
ふと、今はいったい
「早く出よう。時間の感覚がおかしくなりそうだ」
「まぁちょっと待てよ」
ルーシュは机上の巻物を手に取ると、今度は丁寧に紐をほどいていった。
「おい。もしまた同じことが起きたら」
心の隅に物寂しい気持ちは確かにあるものの、あんな経験は一度で結構だ。そう一瞬焦ったが、巻物は何事もなくするすると開いていく。
「いんや、多分この手の術はそう何度も発動するものじゃない。おそらくは手にした者の感情に反応する仕掛けになっているんだろ」
「感情?」
「知りたい。つまりは好奇心や知識欲だな。求める者にのみ、事実を見せるのさ」
しゅるっと音がして、巻物の最も奥、はじめは見ることができなかった真実が姿を現す。
幾重にも枝分かれしていた支流が、少しずつ本流へと戻っていくその先には、長い長い血の流れの始まりが記されていた。
吸血鬼と共に生き、永劫を誓った人間の名前だ。
「……レイテ」
横にはやや薄くなってしまった字で、簡潔にこの城の成り立ちについて書いてある。それこそが今まさに自分達が体験した全てであり、周囲に描かれた文字は、術のためにオルトが施した呪文だろう。
「ん、まだ何か書いてある」
簡単な走り書きのようなその文章は、こんな一文で締めくくられていた。
『たとえ契りが地上との永遠の決別を意味しようとも、この城が落ちることは決してない』
しばらくそれを眺めていた二人は、再び元あった場所に巻物を収め、イリスを連れて静かに部屋をあとにした。
終
◇後書き
最後までお付き合い下さり、ありがとうございました。
色々と書き切れていない部分があったりしますが、ひとまずは終わりです。
次回は「人物紹介&用語集・その2」をお届けし、次章に移行します。
第三部では城の外へ飛び出すお話が展開します。よろしくお願いします。
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