第10話 ルデリアの望み
「『のぞみ』ってなあに?」
「こうしたい、こうなったらいいなと思うことですね」
ルデリアがイリスに優しく教える。子どもへの接し方も慣れているようで、もしかしたら教師でもしていたのだろうかと想像した。
ニコニコと笑みを絶やさず生徒を見守る優しい先生なんてぴったりだ。
「長い間、あちこちを旅してきました」
遠いどこかを眺めるような瞳は、ここではなく、辿ってきた道筋を見つめているのだろうか。儚げな印象に加えて諦観も滲ませた。
「若かった頃は、居心地の良さを与えてくれるひとの傍に居ようとしたこともありました。でも、すぐに時が私と相手を引き裂いていきましてね」
俺はふいにイリスを見遣り、祈りを込めるようにその頭を撫でる。ウェーブがかかった銀糸はさらさらと手に心地よい。
今は幼いこの主人とて、いずれは一人前の吸血鬼として生きていく。その時に自分が傍らに居られるか。普段は意識の外に追いやっている不安がよぎる。
それだけ人と彼らの「生きる時間」はかけ離れているのだ。
「どんなに年を取っても、『別れ』は慣れることがありませんね。あの身を引き裂かれるような悲しみは……。何度か経験して、やめましたよ」
一体、何十年前なのか、もっと前の話なのか。気が遠くなるような過去なのは確かで、それからずっと彼は一人きりで彷徨ってきたことになる。
「でも、だったらどうしてここに?」
構えからして数日の宿ではない。一つのところに留まれば、遅かれ早かれ彼の厭う『別れ』をまた経験することになるのに、何故住むことに決めたのか。
そう問うと、ルデリアはそれまでで一番深い皺を刻む苦笑い顔で、「疲れましてね」と短く呟いた。
「旅にか?」
「生きることにです」
ガチャン! 大きな衝撃音が部屋に響き渡り、硬質な何かがはねる音が続いた。
全員が驚いて音がした方に顔を向けると、傾いた盆を持ちながら真っ青な顔をしたレイテが、扉のところに立っていた。
足元には散乱した陶器の破片が紅茶の海に沈んでいる。
「うわ、大変」
俺はさっと立ち上がって駆け寄り、「大丈夫?」と声をかけながらレイテの手や足を確認する。怪我はないようだ。それから散乱した大きな欠片を拾い始めた。
鋭い割れ目を見極めて摘み上げる作業は、勿体なくて寂しい。けれど、割ってしまった本人は立ち尽くしたままだった。
「レイテ、怪我はありませんか?」
心配するルデリアの声も届かないらしく、お盆を掴む両手が小刻みに震えている。
「る、ルデリア様……いま、何て」
ようやく絞り出すように言葉が出てきたと思ったら、
「『生きることに疲れた』ってどういう意味なんですか! まさか、まさかここで死ぬおつもりなんじゃ……。だめ、だめだめ絶対だめですっ! そんなの私がさせませんから!」
気色ばんだ顔で一息に言ってしまってから、唇をぎゅっと噛みしめる。小さな女の子が、泣くのを必死に堪えている時の仕草に似ていた。
「レイテ……」
名前を呟いたルデリアは、少なからず驚いたようだったが、すぐに平常心を取り戻して彼女の細い肩に触れた。
「心配しなくても、働いた分のお給金を踏み倒したりはしませんよ。それに、退職金代わりにこの屋敷を差し上げます。細々と集めた美術品を換金すれば、ご家族の当分の生活費くらいにはなるでしょう」
「そっ……」
「資産の幾らかで、新しいお医者様を雇えば、これからは病気で苦しむ人ももっと減るでしょうし」
「そんな話をしているんじゃありません!!」
金切り声と言って良い叫びに今度こそルデリアは目を見開き、涙目で訴えるレイテの、幼い頃から知っているはずの人間の変化をまっすぐに見つめていた。
「アンタさ、そりゃニブいを通り越して害悪だろ。トシ食い過ぎてモーロクしたかー?」
呆れた風のルーシュは、突然の騒ぎに目を丸くするイリスを引き寄せ、頭を優しく撫でてやっていた。
彼にとっては生死をかけた
「どうしてそんなことを仰るのですか。村の人達もあなたが大好きです。私もただの恩返しのためだけにお仕えしているのではないと、わかっておいでのはずなのに……」
語尾は消え入りそうに細くなり、俯いた顔からポロポロと滴が零れ落ちる。すでに濡れた床に次々と染み込んでいく。
「だからですよ、レイテ。だからこそ、これ以上傷つかなくて済む前にと、思ったのですが」
どうやら遅かったようですねと、彼は静かに呟いた。後悔しているようにも、仕方がないと諦めているようにも聞こえる声音だった。
「気付かれないうちに、そっと消えるつもりでした。手紙でも残して、また元の旅人に戻ったと思って貰えるように」
「どうして、そんな真似を」
顔を上げたレイテがルデリアの服を掴む。こうして捕まえておかなければ、二度と会うことが出来なくなるとでもいうように。
「どうか、いつまでもここに居て下さい。何でもしますから!」
それがどれだけ残酷なセリフか知らないで、少女は紡いだ。
きめ細かで美しい肌を晒し、甘い香りが匂い立つほどの近さで、年若い娘は涙を流す。目の前の男が、どんなに苦しめられているかにも気付かずに。
俺はしゃがみ込んだまま、間に入りたい気持ちをぐっと堪えて事態を見守っていた。
自分が立ち入って良い話ではない。先ほどまで茶化していたはずなのに、黙り込んでしまったルーシュの姿がそれを裏付けている。
しばらく口を閉ざしていたルデリアが、ふいに苦笑して囁いた。
「じゃあ、あなたの血を、くれますか?」
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