第5話 大きな大きな敵
和やかだった休憩とは打って変わり、羽根ペンが羊皮紙を削る音だけがカリカリと響く。
イリスが頭を悩ませながらも問題を解いていくのを見て、しばらくは大丈夫そうだと判断し、軽く部屋の掃除を始めた。
窓を開けて新しい空気を取り入れ、棚をハンカチで軽くはたく。その度に見えないほど小さな埃が舞い上がっては、風に乗って外へ飛んでいった。
「はくしゅん!」
驚いて振り返ると、自分のくしゃみに驚いたのか、イリスがキョトンとした顔でこちらを眺めていた。
「す、すみません。寒かったですよね」
慌てて謝ると、お人形のように可愛らしい銀髪の幼女がにこりと笑う。
「ううん。お部屋、きれいにしてくれたんでしょ?」
令嬢の部屋にはもちろん掃除係がいて、清潔さには常に気を配っているが、ふかふかのベッドやぬいぐるみが置かれた室内にはどうしても埃が付きものだ。
世話係のフォルトを責めるわけにはいかないにしても、心の隅で彼も少しは身の回りに気を付けて欲しいと思った。
「掃除係に声をかけておきますね。もう少し綺麗にして貰いますから」
「ちらかってても大丈夫だよ?」
「駄目ですよ」
そんなやり取りをしていると、またも控えめなノック音が聞こえた。今度は誰だろう。ルフィニアが出る前にイリスが機敏に立ち上がって扉に「はーい。だぁれ?」と問いかけるも、返事はない。
首を傾げてもう一度訊ねてもやはり戸の向こうは沈黙を保っていて、幼女は扉に尖った耳を押しつけた。
「イリス様はお下がりください」
「何か聞こえるよ? どどどどって」
「どどどど? それって何の」
聞こえてきたと思ったら、その音はけたたましく鳴り始め、すぐに大きな振動へと変化した。
どどっ! どどどどどどどどどどドドドド!!
「なっ、なななな!?」
どかーん! 扉から
◇◇◇
「きゃっ!?」
次に気が付くと視界は真っ白で、ひやりとした冷たさが体をあらゆる方向から刺してくる。
驚いて上体を起こすと、はらはら音を立てて白くて冷たい何かが頭や背中から落ちて、地上に顔を出すことが出来た。
「……ここは外? これ、雪なの?」
慌てて立ち上がってから、建物の古びた壁伝いに手を這わす。幸いにも何処にも怪我はないようだったが、体の雪を払い除けて城を見上げ、わいてきた実感にぞっとする。
自分は落ちたらしい。あんなに高い場所から落ちて、よく無事でいられたものだ。
「そ、そういえばイリス様は!?」
まさか同じように吹き飛ばされたのでは。周囲を見回すも、それらしき影や雪の盛り上がりはなく、ひとまずほっと胸を撫で下ろす。
立ち尽していてもが仕方ないと、今度は壁に沿って塔を進んだ。朝には降っていた雪はかなり積もっており、ヒールの高い靴では穴を穿つばかりで歩きにくかった。
それでもなんとか入口を見付けて建物の中へ滑り入り、息を切らせて階段を上る。肩を上下させつつも元の部屋へ辿り着いてみると、扉は何事も無かったかのようにそこにあり、部屋はひっそりと佇んでいた。
一体、あの凄まじい轟音と衝撃は何だったのだろう。また変な夢でも見たのか。しかしすぐさま否と思い直す。冷え切った体のあちこちがちくちくと痛む、その痛みが夢でないことの証明だ。
扉を二度ノックしても返事がないことを確かめると、思い切って開いた。
「な……」
白白白、完全なる白の世界。扉の向こうは塔の外と同じだった。
私はしばらく、その景色を呆然と眺めることしかできなかった。くるりと背を向けて扉を後ろ手に締めると、やがて異常事態を前に我に返り、声の限り主の名を叫んだ。
「イリス様! イリス様いらっしゃいますか? お怪我はありませんか!?」
大人が弾き飛ばされる程の威力に、幼女が耐えられるはずがない。もし体が冷え切ってしまっていたら、雪の重みに押しつぶされていたら――。
「ルフィニア~、楽しいよ~!」
「……はい?」
返事は、雪の壁を通してくぐもってはいたものの、比較的はっきりと聞こえてきた。
「ゆきがいっぱいだよ!」
「……」
何なのだ、この陽気で緊張感のない展開は。イリスの声はカン高く、とても怪我を負って窮地に陥っているようには聞こえない。それは良かったのだが。
「お、教育係の
「行けるかぁっ!!」
条件反射のツッコミだった。その声が大嫌いなくそが……もとい、悪戯小僧の吸血鬼・クシルのものであることに気付いた途端、私の中で何かがぷつりと切れた。
「姐さんって呼ばないで! じゃなくて何ですか、コレはっ!?」
『雪だるま!』
「ハモらなくていい!」
すると今度は、「ごめんなさい」とクシルの姉であるミルラが謝る声がする。
「弟がまたお騒がせして……はわわ」
本人を見なくても、私には子ども二人の周りをオロオロと歩き回る色白の女性の姿が目に浮かんだ。溜め息が出る。
ご覧の通り、姉としての威厳など皆無のミルラは、こうしていつもいつも弟のしでかす悪戯に頭を悩ませているのだ。
「またこのパターンか」
美しい容姿と控えめな態度から一部にファンを作っているようだが、何事も白黒付けないとすっきりしない性質の自分にはまどろっこしく思えてしまう。弟なのだから、なんとかして欲しいものだ。
「ミルラ様。クシル様とこの雪だるまをなんとかして下さい」
「そんなこと言われても、私には……」
今度も一応頼んではみたものの、返答は予想通りだった。むぅ、やはり駄目か。期待はしてなかったけど!
小さく舌打ちしながら、足に力を込める。私にだってプロだ。主人のためなら何を迷う必要があろうか。こうなったら突撃あるのみだ。
「とりゃあああああっ!」
床を強く蹴り、その勢いで雪だるまへと突進していった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます