第4話 お仕事開始
書庫からはほとんど持ち出せなかった勉強道具を補うため、イリスが待つ部屋のある塔へと移動してから、ある部屋へと入った。
「いつ来ても圧巻ね~」
苦笑混じりに言うセリフは、吸血鬼が長年収集してきた大量の本に対してのものだ。従者用の書庫にも結構な数があるが、ここは桁も質も違う。
部屋は広く、天井が高い。赤みを帯びた棚そのものも頑丈で、インテリア的な価値もありそうだ。そこに分厚くて布張りの高価そうな本がずらりと並んでいる。
「おっと、急がないと」
私は迷いのない足取りで本を選び取ると急いで書庫を出、イリスの部屋の前で足を止めて深呼吸をした。それからノックをし、ゆっくりと扉を開く。
「さぁ、イリス様。今日は算数から始めましょうか」
明るさを心がけて声をかける。室内ではイリスを抱えたフォルトが暖炉にあたっているところだった。
私は運んだ本を机に置き、羊皮紙やペンを用意する。本を置いたとき、重さに机がぎしりと軋んだのには驚いた。もしかして持って来すぎた?
素直な主人は青年の腕から抜け、笑顔で椅子に座る。
少し前に新調した机は成長を見越して作られている分やや高めで、胸の上までがようやく机を上回るかといった具合である。
「え~、フォルトも一緒に居てくれないのぉ?」
フォルトに食事を取るように促すと、イリスが不満の声を上げた。記憶の限りでは、彼は飲まず食わずのはずだ。
空腹の上に血まで抜かれたら、丈夫な人間でも体調を崩す。ここは仲間がフォローを入れておかなければ。
「すみません。勉強が終わったら、また遊びましょうね」
「……ぜったいに戻ってきてね」
「分かってますよ」
「さぁイリス様、今日はここからでしたね」
フォルトの言葉に納得した幼女が数字と睨めっこを始めると、部屋はとたんに静かになった。
無邪気なイリスの成績は目立って良くも悪くもないが、飲み込みが遅くても理解しようと頑張る姿は健気で、教えがいはある。
「んーと、クッキーが3ことケーキが4こで……」
そうして指を折りながら呻る光景は微笑ましい。山のように積み上げられた本の中から選り分けた問題を、イリスが自分のペースでゆっくりゆっくり解いていく。
こんな時に出来る手助けは、足りない指を貸してやったり、どの問題を参考にすればいいかを教えることくらいだ。
「あっ、これかな」
首を捻り、他の問題と照らし合わせながら答えを導き出す。その一連の動きが幾らか続いた頃、コンコンコンとノック音がした。大事な勉強中に一体誰だろう。
室内が静かだったせいで、音の大きさに私はどきりとさせられたが、「失礼します」という声に聞き覚えがあったため、すぐに平静を取り戻した。
入ってきたのは白いエプロンを着た、オレンジの髪の女性だった。色鮮やかな後ろ髪は、白い帽子にきゅきゅっと詰め込まれている。
「よろしければ、少しお休みになりませんか?」
銀色の盆には香ばしく焼けたクッキーと湯気が立つホットミルク。程良い甘い香りがじんわりと部屋を満たす。
「わぁ、おいしそう!」
イリスは美味しそうな匂いに耐えきれず飛びついた。かしゃんと小さく音を立てておやつが机に置かれると、早速手を伸ばした。
「ごめんなさい。お邪魔しちゃったみたいね」
「ううん、一息入れたかったところよ」
イリスの集中力の持続時間はまだまだ短い。ちょうど休憩を取ろうと考えていた頃合いだった。
「いつもありがとう。さっき、部屋に伺おうと思っていたのだけど」
「ルフィニアも忙しいんだから、気を遣わないで」
彼女はイリス専属の食事係だった。主人のために、昼はこうしていつもおやつを差し入れてくれる。自然とほぼ毎日顔を合わせることになり、仲良くなった。
「フォルトさんは?」
「釈放したわ。飲まず食わずじゃ可哀想だし」
思い当たる節があるようで、彼女は「それで」と呟く。
「さっき見かけたのよ。顔色が悪いみたいだった」
「青いくらいはどうってことないけど、土色はまずいわよね」
他人が聞けば吃驚しそうな会話だが、口を開けばいつもこんな調子だ。少し自重しないと、とは思っているのだが。
さくさくと小気味よい音がした後には、甘い香りを漂わせるミルクをすする音が控えめに響く。今日もイリスは味に大満足らしい。
「ねぇ、ルフィニア。あなたも顔色が良くないみたい。大丈夫?」
「え……。別に、何もないわよ?」
気遣いに溢れた一言に私は顔を強張らせる。ふふっと誤魔化すように笑って、イリスの口周りを一度綺麗に拭いてやった。
「本当に?」
あどけない表情の幼女は、そんな二人を意に介さずクッキーをぱくつき続けている。育ち盛りの彼女には朝夕の食事だけでは不十分なのだろう。血で「飢え」は癒せても、それとこれとは別次元らしい。
「化粧のノリが悪かったから、ちょっと厚く塗りすぎたかも」
顔色を指摘されて思い当たることは一つしかないけれど、ありのままに説明するのは
「ルフィニアでもそんなことあるの?」
相手は妙に意外そうだった。私は完璧主義者に見られることが多く、親しい彼女もそう思っている節がある。
「わ、私だってお肌の曲がり角は過ぎちゃってるんだから、当たり前でしょ」
軽く膨れ面を作って怒って見せてから、一緒に吹き出した。笑いが笑いを誘って、二人はしばらくクスクスと笑い合う。
「さ、そろそろ再開しましょうか」
イリスを見遣れば、丁度クッキーも食べ尽くし、ミルクも飲み干していた。その機会を捕まえて気持ちを切り替える。
食事係が深く頭を下げて部屋を去ったあとは、再び静寂の中での個人授業が開始された。
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