第3話 酷い夢

「はぁ、はぁ。……もう、なんだったのよ」


 元のフロアまで戻って来た時には、ランプを片手に肩で息をしている自分がいた。心身共に力尽きてよろよろになった足でテーブルにつき、そのままへたり込む。


 感謝すべきことに、周囲から刺さる視線はない。従者のほとんどがこの時間帯にはすでに各々の仕事に就いているからだ。


「誰だったのかしら」


 火を消したランプを見つめていると、段々と頭が冷えてくる。考えてみれば、ただ居合わせただけの人物に過ぎなかった可能性が高い。いや、もしかすると知人だったのだろうか?


「あら、でも……」


 ふいに、逃げる際に見た茶色いブーツを思い出す。従者は男女問わず黒いスーツに身を包んでおり、足下も黒と決まっている。……まさか。

 一端は落ち着ていた心臓が、別の意味で跳ね上がった。すれ違った人物が、人間ではなかった可能性に気付いたからだ。


 それなのに私、ほとんど返事もしないで逃げて来ちゃった!?


 頭の何処かで、こんな場所に彼らが来るはずがないと思いこんでいた。でも、その可能性は決してゼロではないのだ。


「ああぁあぁぁ……もう最悪~」


 とても人のことを責められた立場ではない。涙目で再度顔を伏せ、赤面ものの失態に頭を抱えて唸った。


 ◇◇◇


「……えっ?」


 目を覚ますと、自室のベッドの中だった。見慣れた窓はカーテンが開け放たれており、そこから作り物の陽射しが明るく差し込んできている。


「私、どうしたんだっけ……?」


 思い出そうとして毛布をはいで自分を省みると、服はスーツのまま。髪もリボンを解かず放置されている。唯一、靴だけは脱いでいて、ベッドの横に揃えられていた。


「倒れたの、やっぱり覚えてないか?」


 面白げな声にぎくっとしてクローゼットの方に目を向けると、扉を開いてカラフルなリボンを弄んでいる人物に気づいた。


「る、ルーシュ様っ?」


 びっくりして言葉もなく見つめていると、闇の中へ沈み込みそうな紫の外套姿の少年は半分呆れ顔で「折角、俺が運んで来たっていうのに」と言った。


「相変わらず呑気だねぇ、あねさんは」

「その呼び方はやめて下さい。……あの、どうしてここにルーシュ様が?」


 事態が全く理解できない。倒れた? 運んだ?

 ぱたんとクローゼットの扉をしめてから、ルーシュはこちらへ向き直った。ただでさえ狭い部屋の、更に狭い日陰に立っているのは、作り物の光でさえ吸血鬼の本能で忌避しているからか。


「全然思い出せない?」

「はい……」


 頷くと、彼は心地よいはずの暗がりから歩み出てベッドへと近寄ってきた。従うべき相手を立たせ、自分が横になってはいられない。立ち上がろうとする私を片手で押しとどめてくる。


「る、ルーシュ様」


 あっと思う間もなく、顔が、紅い瞳が、息がかかりそうな距離に迫ってきた。大して力を入れていなくても、肩に鋭い爪が食い込みそうだ。暖かくて湿った息が頬にかかる。


「書庫で俺が近付いたら突然倒れたんだ。で、仕方ないからここまで運んで……」


 どんどん間が縮まる。もう吸血鬼特有の牙がはっきりと捉えられる。それが正面を逸れて、首筋へ向かうのを横目で眺めるしかなくて――。


『痛~~~っ!!』


 ◇◇◇


 気が付くと、そこは元の食堂だった。今の自分の悲鳴で目を覚ましたらしい。伏せて寝ていたようで、手の甲にはくっきりと歯形が付いている。無意識にみ付いてしまったようだ。


 慌てて首を回すが、人気は少ないままである。あまり長い間眠っていたわけではないと分かり、ほっと胸をなで下ろした。


「それにしても凄い夢。今日は散々だわ」


 あぁ怖かったと呟いて、壁に掛かった時計を見た。その、簡素な壁掛け時計によると、時刻は昼を迎える少し前、そろそろイリスの勉強時間であった。


「いけない。もう向かわないと」


 頭を振って意識を完全に呼び起こし、私は従者塔を出て目的の場所へと向かった。



 塔同士を繋ぐ渡り廊下を過ぎる途中、冷えた頬に触れて先程まで眠っていた事実を思い出した。このまま真っ直ぐイリスのところへ行くのはまずい。


 私は足の向く方向を変えて化粧室へと飛び込んだ。奥へと長いの化粧室は、入って左側の壁に鏡が並ぶ形で張り付けられており、腰の高さには小物が置ける程度の台がある。


 他に数人の女性が立って化粧をしていたが、あえてお互いに言葉は交わさない。私も無言で入口近くに陣取って鏡を覗いた。


「わ、酷い顔」


 思わず顔をしかめる。引き返して正解だ。予想通り、一見しただけで分かる筋が、くっきりと頬を横に走っている。

 寝ていた時に食い込んだ指の跡が残ってしまったのだ。


「このまま行ったら、なんて言われるか分からないわね」


 いくら鈍いフォルトでも、鮮明なこれには気付くだろう。軽率な人間でないと信用はしていても、指摘される要素を自分の矜持プライドが許さない。


「えっと」


 スカートのポケットから化粧道具を取りだし、顔色を整える。色調と明度を綺麗に直せば、醜い跡も気にならない程度にまでは誤魔化せる。あとは唇に薄く紅を乗せ、全体に馴染ませた。


 顔を見る度に実は少し落ち込んでしまう。体中に栄養を行き渡らせる血液を毎日のように奪われ続けていたら、きっと通常より老化が早く、寿命も短いに違いない。


「ま、そんなこと言っていても仕方がないわね。さて、頑張りますか!」


 たとえ吸血鬼に仕える従者という身だとしても、自分は決して奴隷ではない。仕事にはきちんと誇りを持っている。そう気分を奮い立たせ、化粧室の扉を開いた。

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