第2話 書庫に忍び寄る影

「ど、どうしたの?」


 音と仕草に吃驚びっくりして問いかけると、青ざめた表情で恐ろしい事実を暴露した。


「わ、私、今朝は旦那様の給仕のお手伝いが……!」

「なんですって!?」


 震える唇での告白は決して大きな声ではなかったのに、ざわつくフロアを一瞬で静まり返らせる威力があった。

 吸血鬼達の住まうこの城をまとめる当主はおおらかな人柄だ。たとえ召使いである従者達の前であろうと、柔らかい微笑みを絶やす事はない。


 ただし、それに甘えようと考える従者は皆無だ。怒ったところを誰も見たことがないのは、誰も怒らせないからに他ならない。

 もしこの見習いがその地雷を踏めば――そう考えると背筋が寒くなる。


「何してるの、早く行きなさい!!」

「は、はいっっ!」


 私は呆けてしまっている後輩を激しく叱咤した。我に返って走り出す背中を見つめ、きつく言い過ぎたかとも思ったけれど、これも彼女のため、果ては全ての同僚のためである。


 片付けを引き受ける旨を伝える頃には、足の速い少女は出入り口に差し掛かっていた。たまに見せるドジも今はなく、そのまま角を曲がって消えていく。


「……大丈夫かしら」


 フォルトだけでなく、サスファまでとは。身の振り方を考えた方がいいかもしれない。澄んだ紅茶のおもてに映った物憂げな顔が、これまでで最重の溜め息を零す。

 嫌になってそれをスプーンでぐるぐるっとかき回し、一度は取りだして横に避けていたスライスレモンを再び戻して、カップ底に強く押しつけた。


「心配しなくても、あの二人なら大丈夫よね?」


 そう、無理矢理にも考えを浮上させたのは10分ほどしてからで、気持ちを入れ替えて二人分の食器を片づけるために席を立つ。周囲を見回すと食事を取る顔ぶれも変わっており、人数自体もぐんと減っていた。

 時間の余裕などないというのに、とんだロスである。



 カツカツと、またもやヒールが固い廊下を蹴る音が、細い螺旋階段に規則的に響く。

 従者塔には、あまり知られていない場所がある。それは、一階部分よりも更に下へ降りる階段の先だ。食堂部分の反対側にあるその階段は、真正面からでは見えず、よく確認しなければ発見できない。


 代々の教育係の育成過程は、まずこの場所を教えられることから始まる。気付かなかった空間に驚き、先達の背中を追いながら、暗い階段を恐る恐る降りていくのである。


「相変わらず暗いわね」


 フロアの準備室から拝借したランプで用心深く足下を照らし、慎重に歩く。下から上がってくる埃っぽくて湿った空気に、自分の声と足音のみが反響するのを聞きながら。


「誰もいない、わよね」


 階下には重厚な本棚が延々と続く書庫があった。木製のそれが人の足音に驚いたように軋む様は空恐ろしく、私は肩を震わせる。


「さっさと終わらせて帰ろ」


 従者塔の下にあるせいか、余計に孤独感を感じさせる書庫は、来るとどうしても独り言が増える。

 壁に手を這わせてランプから部屋の蝋燭に火を移すと、ようやく全容が明らかになってきた。棚と棚の間は大人がすれ違える程度で、全て床に固定してあると知っていても大きく揺れたらと想像してしまう。


「気のせいよ、気のせい」


 そんな威圧感の中を奥へ進み、棚に振られた番号と本の背表紙へと視線を流した。今日のイリスにはあれをと、目星を付けていたものは足元の段にあり、体を屈めて手を伸ばす。


「……?」


 地下に溜まった動かない空気に僅かな揺らぎが生じ、指先が止まった。消しきれない足音も地面を伝って感じられる。滅多に人の訪れない書庫に、誰かが来たのだ。


 私は知らんぷりを決め込もうとした。きっと、物好きな従者が探し物をしに来ただけだろう。仲間の中には読書家もいるし、ここは別に入室禁止ではないのだから。

 けれども気配はどんどんこちらに近付いてきて、息を潜めている間にいよいよ無視できないところまで、距離を詰めてきていた。


「……」


 蝋燭の灯りでそれなりに明るいはずが、棚が邪魔して相手を定められない。苛立ちが募る。どうしようどうしようと、そればかりが頭を巡る。

 身を固くしていると、ふいに気配がすぐ向こう側から感じられることに気が付いた。


「~~~っ!」


 うなじを誰かの視線が舐めるように伝い、私はとうとう声にならない悲鳴を上げて走り出した。靴がカツン! と硬い音を立て、本棚越しの相手と自分の耳をつんざく。

 生憎あいにく出入り口はたった一つしかなく、到達するためには「誰か」の横を通る必要がある。けれど、緊張と嫌悪感はピークに達しており、一瞬たりとも留まっていたくはなかった。


「あっ」


 出来るだけそちらを見ないように顔を伏せて、全速力で駆け抜ける。視界の端に光沢を放つ茶色いブーツが見え、呼び止められた気がした。心臓が跳ねる。それでも止まることなど出来なかった。


「すみませんっ、失礼します!!」


 残されたありったけの勇気を振り絞って叫ぶと、階段を一気に上りきった。

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