第3話 真っ白い世界へ

「フォルト、お腹空いたよ~」


 数秒の対峙たいじのあと、今度は下からイリスが俺の髪を強く引いてきた。そう、無駄に長い髪はこのために伸ばしてあるのだ。

 正直、引っ張られると痛いし、歩くとあちこちに当たるし、汚れるし、手入れは面倒でたまらない。


 しかし、嫌気がさして少し前に思い切って短くしたら、イリスは大号泣してしまった。仕方なくルーシュの用意した怪しげな薬で伸ばし直したのである。


「あぁ、はいはい」


 膝によじのぼってくる幼子を抱え上げて、俺はもう片方の手で自分の首の後ろの髪を払い、はっとする。

 ゆっくりと顔を上げると、ルーシュがぺろりと舌で唇を舐めている仕草が目に入り、背筋に怖気が走った。決して部屋が寒いからだけではない。


「たまにはご相伴しょうばんに預かろうかと思ってさ」

「殺す気か! お、俺の血なんか飲んでも不味いだけだぞ」


 からかうのが楽しくて仕方がないらしく、ルーシュは更に笑みを濃くして一歩、また一歩と近付いてくる。


「そんなの、試してみないと分からないって。なぁ、イリス?」

「おいしいよ~」


 会話の途中でもお構いなしに、イリスは俺の首へ牙を立ててきた。その幼い姿からは想像も付かない鋭い痛みが訪れ、ざらざらとした感触が続く。

 こちらが動きさえしなければ長い時間でもなく、服を汚すことなどない。


 あとはこうしてじっと待つだけなのだが、目の前の銀髪の男は確実に距離を詰めてくる。「食事」が終わるのを待っているのだ。


「ふぅ。ごちそ~さま」


 だんっ! イリスが首から口を離した瞬間、俺は床を蹴った。そのままルーシュの横を無理矢理すり抜け、脇目もふらず一気に走る。


「あ」


 声を発したのは誰だったのか。寒さと貧血も相まって、目眩めまいを覚えた体を支えて走りきる。イリスを抱えた体勢のまま本塔へと辿り着き、こうしてなんとか逃げ延びることに成功したのだった。


「びゅーんってすごかったねぇ」

「あ、サスファ忘れた」


 まぁ大丈夫だろう。ルーシュもそこまで悪魔じゃあるまい。多分。

 白い息を吐きながら、長い廊下を肩からおろした幼女の手を繋いで歩く。二人の歩みはイリスに合わせたのんびりペースだ。革の靴底を通して、床の冷たさが足に伝わってきた。


 遠くの方で従者達が忙しく行き交う足音がする以外はしんとしたもので、すれ違う者もない。


「寒いですか?」

「手をつないでいるからぬくぬくだよ~」


 主人はにこりと笑った。

 俺の仕事はイリスの身の回りの世話である。まだ幼い彼女の一日は勉強の時間を除けばかなりスケジュールに余裕があり、今みたいに二人で城の中を散歩するのも、立派な「お仕事」のうちだった。


 いくつもの塔の群と表現すべきこの城は、とにかく広くて大きい。だから幼い頃から連れ歩き、道を覚えさせる意味でも散歩は必要なのである。


「今日はどこに行くの?」


 イリスが紅い瞳を向けてくる。好奇心に満ちたそれを見返すと、足を止めて考え込んだ。

 さて、どこへ向かったものか。生活に必須の部屋はもとより、もう少し大きくなったら行くであろう場所へも、すでに何度か案内してきた。


 他に見て置いた方が良いのはどこだろう。幼い彼女や従者である自分が入ることを許されていない所へは連れていけないしな、と思考が巡っていく。


「……イリス様はどこへ行きたいですか?」


 そういえば、まだ本人に選ばせたことは無かった。たまには希望を聞くのも、子どもの自主性を育てるのには有効だろう。

 そう思って訊ねると、彼女の顔に喜びが浮かんだ。


「イリスが決めていいの?」

「いいですよ」

「やったぁ! う~んとねぇ」


 幼女はしばらく、俺と同じようにあちらこちらへと思いを巡らせていた。ああでもないこうもないと、思い付いては打ち消すのか、くるくる表情が変わって面白い。

 そうして悩みに悩んで、やっと結論が出たらしく、うつむいていた顔を上げると強く宣言した。


「よぉし、しゅぱーつ!」


 ◇◇◇


 楽しそうな笑い声が、雪の舞う中から漏れ聞こえてくる。

 中庭へ行きたいというイリスの願いに応えて、俺は雪の積もった庭へと連れていくことにした。事前に一度部屋へ戻って、手袋やマフラーを身につけさせることも忘れない。


「う、冷えるな」


 一歩外へ出るだけで途端に気温が下がる。中庭は積もった雪で白一色だ。秋に降り積もった木の葉も、今は水が止められている噴水も、どこもかしこも真っ白に染め上げられている。


 二人は降って間もないまっさらな雪を踏みしめた。大小二つの足跡を刻めば、さくさくと小気味よい音を立てる。


「面白いね~!」


 赤い手袋とマフラーは雪の中でも目立って、イリスの居場所を見失わずに済む目印になる。


「フォルトー、きてー」


 くるくる回ったかと思えば、雪を手で集めてみたりしていて一人でも十分楽しそうに見えたのだが、どうやらお相手をご所望らしい。


「いや、俺はいいで、ぶっ」


 断ろうとした瞬間、軽い衝撃と共に視界が白で埋め尽くされた。雪玉を投げつけられたらしい。

 ただでさえ寒さで顔が痛いのに、鼻から耳の先まで霜焼けになりそうだ。


「な、何するんですか」

「あはははは! 顔まっしろー!」


 子どもは本当に元気だ。

 空を見上げれば、雲の合間から陽の光が柔らかく降り注いでいることに気付くのだった。

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